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「アメリカ音楽の古典」 ガーシュイン

今日7月11日は、ポピュラー音楽・クラシック音楽の両面で活躍したアメリカの作曲家ガーシュインが、1937年に亡くなった日です。

1898年、ユダヤ系ロシア移民の子としてニューヨークのブルックリンに生まれたジョージ・ガーシュウィンは、音楽的環境に恵まれてはいませんでしたが、幼いころから音楽好きの素質をあらわしていました。父親は貧しい生活の中、ジョージが12歳の時、兄アイラに音楽を学ばせようとピアノを買ってやったところ、兄よりジョージがピアノに親しむことになり、13歳で正式にピアノを習いはじめました。

やがてポピュラーソングに興味を持つようになり、16歳のとき高校を中退して楽譜屋に勤め、客の求めに応じてピアノを弾いたり作曲をするようになりました。いっぽう歌手の伴奏、ミュージカルの練習ピアニストなどをつとめながら、売り込みのチャンスをねらっていました。そして1919年、歌曲『スワニー』が一世を風びしました。当時最高の流行歌手アル・ジョルスンによって歌われたこの曲は、数百万枚ものレコード売上を記録し、ガーシュウィンはいちやく人気ソングライターとなりました。1920年代以降は、作詞家となった兄アイラと組んで、レビューやミュージカル向けにたくさんのポピュラーソングを送り出します。

クラシックにも取り組み、アメリカのジャズ王といわれたポール・ホワイトマンの依頼による『ラプソディ・イン・ブルー』を1924年に発表。ジャズとクラシックを融合させたこの作品は「シンフォニック・ジャズ」の代表的な成功例として世界的に評価されました。さらに翌年、カーネギーホールで『ピアノ協奏曲』をガーシュイン自身のピアノ独奏で発表して名声をさらに高めました。また、黒人コミュニティの風俗をリアルに描いたフォーク歌劇『ポーギーのベス』の劇中で歌われる『サマータイム』も大ヒットし、ガーシュインは「アメリカの生んだ偉大な作曲家」と讃えられたばかりか、この曲はポピュラーソングのスタンダードナンバーとして今も親しまれています。

『パリのアメリカ人』もよく知られています。1928年兄アイラと、仕事の疲れをいやすためにパリを訪れたガーシュインは、ホテルに訪ねてくるラベルやストラビンスキーらたくさんの作曲家と交流するうち、パリの印象を曲にして聞かせ、いっしょに楽しみました。帰国後『パリのアメリカ人』として同年の年末に、ニューヨーク・フィルハーモニーの演奏で初演されました。全体が3つの部分に分かれ、第1部は、陽気なアメリカ人が楽しそうにパリを歩きます。第2部は、ブルース調で、故郷への郷愁にかられます。第3部は気分をとりもどして、愉快にふるまう──という感じの作品で、『ラプソディ・イン・ブルー』『ピアノ協奏曲』よりもっと独創性が高いという賛辞をうけ、ガーシュインの作曲家としての地位を不動のものにしました。

しかし1937年、脳腫瘍のために昏睡状態となり、わずか38歳で亡くなってしまいました。


「7月11日にあった主なできごと」

1156年 保元の乱…後白河天皇方の平清盛、源義朝らが、崇徳上皇方の平忠正、源為義らのこもる白河御所へ未明に夜討ちをかけて打ち破りました。その結果、上皇は隠岐に流され、為義らは処刑されました。これにより、武士が政治に進出することが決定的となります。

1864年 佐久間象山死去…幕末の志士として有名な吉田松陰、勝海舟らを指導した開国論者の佐久間象山が、攘夷派の武士たちに襲われて亡くなりました。

1893年 真珠の養殖成功…御木本幸吉は、この日アコヤガイを使った貝の中に真珠ができているのを発見、約10年を費やして、真円真珠の養殖に成功しました。

投稿日:2012年07月11日(水) 05:35

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)