「おもしろ古典落語」の72回目は、『狂歌会(きょうかかい)』というお笑いの一席をお楽しみください。
めずらしい落語の一席を申し上げます。太閤秀吉が大坂城にいるときのお話で、雨がしとしと降って、庭に出ることもできません。「あー、これ、だれかあるか?」の声に、ご前にまかり出ましたのは、細川幽齋(ゆうさい)、この人は武将でもありますが和歌の名人で、頭を丸めております。「おお、幽斎か、よく降るのう。余はたいくつじゃ、なんぞ、たいくつをまぎらわす遊びはないか」「歌比べなどはいかがでしょう」「歌比べ? わしとそちでは、こりゃ、とてもかなわんな」「いえ、ご前とわたしではござりませぬ。次の間にひかえておりますものどもと、読み比べなぞいかがでござります」「して、誰がおるのじゃ」
「はい、加藤清正どの、福島正則どの、それに曾呂利(そろり)新左衛門、千利休がひかえております」「うむ、おもしろい。みなこれへ集まれ」ということになりました。加藤清正は、太閤さんと同じ尾張中村(名古屋)の生れで、幼いときから秀吉につかえて、数々の武勲があります。熊本城主で「清正の虎退治」は有名、その名を聞いただけで虎もふるえあがるという猛将です。福島正則も賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦には、清正らとならぶ「七本槍」のひとりで、清正に負けない秀吉の忠臣。曾呂利新左衛門は、さむらいではなくて「御伽衆(おとぎしゅう)」といって、太閤さんにいろいろ面白い話を聞かせる役をしています。千利休は、茶の湯の名人で、曾呂利と同じように秀吉の大のお気に入りです。
「ただいまより、雨のうさばらしに、ご前で歌くらべを行います。歌と申しましても和歌ではなく、狂歌でまいりたいと存じますが…、お題は、ご前よりたまわりたいと存じます。ご採点のほどもよろしくお願い申し上げます」「よし、余が題をつかわそう。いつぞやはたしか『小さきもの』という題を出したことがあったの? あの折、余が感心したのは『あわつぶの中をくりぬき家を建て いく間へだてて囲いつくらん』というのがあった。その反対じゃ、『大きなもの』という題とする。いちばんの銘吟には、ほうびとして、この秘蔵の刀をつかわそう」「これは、結構で」「これはありがたき…」「しあわせに…」「ござります…」一同みんな、自分が刀をもらったような顔をしています。
いちばんに名乗りをあげたのが千利休。「『武蔵野に一輪咲きし梅の花 天地に響く うぐいすの声』というのはいかがでしょう」「うむ、さしも広い武蔵野の原に、たった一輪梅の花が咲き、うぐいすのさえずる声が天地に響くというのじゃな、これはみごとじゃのう」「ご前、いいだしっぺの私のは、もう少し大きいかと存じます」「よし、幽斎もうしてみよ」「『富士山を枕となして寝てみれば 足のあたりは難波にぞある』」「なるほど、これはいい、秀逸じゃ」「あいやぁーご前、そんなちっぽけな歌をおほめになるのは、しばらくお待ちくだされ」「こりゃ正則、もっと大きな歌ができたのか? もうしてみよ」
「『須弥山(しゅみせん)に 腰うちかけて大空を 笠にかぶれど耳は入らず』」「いやー、これは大きいのぅ。須弥山といえば、仏教でいう世界の中心にそびえたつ高山のことじゃな。その山に腰かけて、大空を笠にかぶっても耳が入らないとは大きい、ほうびの刀は正則に決まったようじゃな」「あいやぁ、しばらくしばらく」「これ、清正、もっと大きな歌があるのか?」「大あり(尾張)名古屋のコンコンチキ。『須弥山に 腰うちかけしその人を くしゃみの風に吹き飛ばしけり』は、いかがでござる。ごほうびの刀、ちょうだいつかまつります」
手を出す清正につられるように、太閤が刀を握ってさしだそうとしたそのとき、「オッホン…」とせきばらいがして、さっきからだまっていた曾呂利がノソノソ進み出てきました。「なんじゃ新左衛門、不満そうな顔をして、お前も一首詠んでみるか?」
「はい、お刀をお忘れなく。『天と地をダンゴに丸めて手にのせて グッと飲めどものどにさわらず』」 これには秀吉はじめ満座の諸将も納得の顔です。「ご前、カネミツの名刀、まことにありがたきしあわせに存じます」「これ、新左、その白鞘ものは無銘なるが確かに兼光、ぬいてもみぬもせぬに、なぜ兼光とわかる」
「軽いのは竹光(竹の刀)、重いのは金光(金物の刀)でございます」
「6月8日にあった主なできごと」
632年 マホメット死去…キリスト教、仏教とともに世界3大宗教のひとつとされるイスラム教の開祖マホメット(ムハンマド)が亡くなりました。
1810年 シューマン誕生…「謝肉祭」 「子どもの情景」 などを作曲し、ドイツ・ロマン派のリーダーといわれるシューマンが生まれました。
1947年 日教組結成…奈良県橿原市で日本教職員組合(日教組)の結成大会が開かれました。戦後教育の民主化、教育活動の自由、教育者の社会的・経済的・政治的地位の向上をめざすとし、教師は、これまでの「聖職者」から「教育労働者」へと大きく転換するキッカケとなりました。