今日6月7日は、明治時代に活躍した新聞記者の岸田吟香(きしだ ぎんこう)が、1905年に亡くなった日です。岸田は、目薬「精リ水」(せいきすい)を販売するなど、薬業界の中心人物としても知られています。
1833年、美作国(今の岡山県美咲町)に酒造を兼ねた農家の子として生れた岸田は、幼少年時代に郷里や津山で漢学を学び、1850年に江戸に出て、津山藩の塾や幕府の儒者林図書頭に入門して漢学を深めました。その間に藤田東湖や大橋訥庵と知り合い、秋田藩や水戸藩で林の代講を務めるほどでした。
1855年、健康を害していったん郷里にもどったのち、翌年ふたたび江戸へ出て、水戸学派の藤森天山の塾に入門しました。ところが、藤森が幕府より追われたため、岸田もそのとばっちりをうけて上州に逃れ、また江戸に入って浅草で仕切屋銀次と偽って寺子屋を開きました。やがて、きさくな性格が好かれ、仲間たちから銀公銀公と呼ばれるうち、「吟香」と名乗るようになったといわれています。
岸田はそのころ眼病に悩んでいたため、ある人物の紹介で1863年、アメリカ人宣教師ヘボンを横浜に訪ねました。ヘボンの治療で全快したばかりか、和漢の語に詳しいことが認められた岸田は、ヘボンが当時手がけていた和英辞書編集の助手となり、1867年に『和英語林集成』として出版されました。この辞書は、収録語数2万、1906年までに7回重版されています。いっぽう、ジョセフ彦(浜田彦蔵)と知り合い、外国新聞を飜訳する『海外新聞』発行の手伝いをしました。
1868年には、『もしほ草』という半紙4つ折り数枚つづりの新聞を横浜で発行、18号まで続けたところ、その記事の面白さを「東京日日新聞」が注目、1872年に主筆としてむかえられました。翌年の台湾出兵の際にはわが国初の従軍記者としておもむき、『台湾従軍記』を連載して好評を博しました。これは、人々に新聞の価値とはたらきを教えた画期的なことでした。
1877年、新聞社を退社した岸田は、ヘボンから伝授された目薬「精リ水」を、銀座に開いた「楽善堂」という薬屋で発売して、売薬業に専念しました。1880年には、中国の上海に楽善堂支店を開くなど販路を中国各地に拡げて大成功を収めました。
いっぽう日中間の将来のための文化交流に力を入れ、「日清貿易研究所」や「東亜同文書院」の設立に中心的な役割を果たしたばかりか、中国各地に病院を設けた「同仁会」の設立にも積極的に参加しました。また、漢方薬にも注目して日本に普及させたり、盲人教育への関心も深く「楽善会訓盲院」(現筑波大学附属盲学校)を創設しています。
なお、「麗子像」で名高い洋画家の岸田劉生は、岸田の4男です。
「6月7日にあった主なできごと」
1848年 ゴーガン誕生…日本の浮世絵や印象派の絵画を推し進めるうち、西洋文化に幻滅して南太平洋のタヒチ島へ渡り『かぐわしき大地』『イヤ・オラナ・マリア』などの名画を描いたゴーガンが生まれました。
1863年 奇兵隊の結成…長州(山口県)藩士の高杉晋作は、農民、町民などによる「奇兵隊」という軍隊を結成しました。奇兵隊は後に、長州藩による討幕運動の中心となりました。