児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ Top >  おもしろ落語 >  そこつの釘

そこつの釘

「おもしろ古典落語」の67回目は、『そこつの釘(くぎ)』というお笑いの一席をお楽しみください。

「ちょいとおまえさん、今ごろまで何をしてたんだい?」「どこったって、こんな重いもんしょって、どこへいくもんか、ここへこようと思ったんだ」「朝早いうちに家を出て、もうじき夕方じゃないか。この引越しの荷物、長屋のみなさんが、みんなで手伝ってくださったんだよ」「おいおい、おれだって好きでこうなったわけじゃねぇ。これにゃ、深いわけがあるんだ」「どんなわけだい?」

「つまりだ、人力車と自転車が突きあたったんだ」「あぶないね、けがしやしなかったかい」「おれじゃねぇ、はずみってぇのはおそろしいもんだ」「そんな人さまのこと、大きなお世話じゃないか」「それが、悪いことにカステラ屋の前でな、こね鉢に入った200個もある卵が流れ出したんだ。カステラ屋が怒ってな、自転車と人力車とカステラ屋の3人のけんかになった。すると、そこへおまわりが来て、なにしろ交番へこいという騒ぎだ。おれも、どうなるかと思うから、交番へくっついてった」「あきれたね、重いものしょって、交番へついていくやつがあるかね」「こんなおもしれぇもの、めったに出くわせねぇや。ようやく示談でおさまったんで、安心だ」「何が安心だよ」

「それからここへこようと思って大通りへ出て四つ角へ来ると、大家のとこの赤犬とどっか黒犬がけんかをしてるんだ。ところが赤犬の旗色が悪くなって下になっちゃったから、見て見ぬふりはできねぇ。そばへ行って『赤、ウシウシ』と声をかけると、赤のヤツ急に勢いづいて、ぴょいと立ち上がった拍子におれが引っくり返っちまった。ところがツヅラが重いもんで起き上がれねぇ。もがいているのを、通りがかりの人に助けてもらった」「やだねぇ、意気地がないねぇ、それでどうしたの」

「どんどん歩いたさ。ところが、どこを歩いても家が見つからねぇんだ。しかたがねぇから引っ返して、元の家へもどったらガランとして、何もありゃしねぇ。そこへうまいぐあいに大家が来たから、頼んでここへ連れて来てもらったってわけよ」「ほんとにやんなっちゃうね、外も暗くなってきたから、かたづけは明日にすることにしたの。ところがほうきを掛けようと思ったら釘がないんだよ、ちょっと釘を打っておくれよ」「それみろ、そういうことになったら、大工のおれでなきゃ、手に負えねぇだろ、べらぼうめ」

ところが、柱と間違えて、瓦釘という長いやつを壁に打ちこんでしまいます。長屋は棟続きなので、隣に突き抜けて物を壊したかもしれません。かみさんが心配し「おまえさん、落ちついてよくあやまるんだよ。落ちつきゃあんたも一人前なんだから」と、いい含めて聞きに行かせると、亭主は向かいの家に入って、またおおしくじり。

すったもんだでようやく隣に行けば、隣の主人に、「つかぬことをお伺いしますが、お宅のおかみさんとは、ちゃんと仲人があって一緒になりましたか?」「たしか仲人が入ってもらいましたよ。それがどうかしましたか」「実はあっしどもは……」と、ノロケかたがたなれそめ話。「いったい、あなた、家に何の用でいらしたんです」と聞かれて、ようやく用件を思い出し、調べてもらうと、仏壇の阿弥陀様の頭の上に長い釘の先が出ています。「こりゃ大変だ。明日からここへほうきをかけにこなくちゃ」と、トンチンカンなことをいうので、「あなたはそんなにそそっかしくて、よく暮らしていけますね。ご家族は何人で?」「へえ、女房と、3年前から中気を患ってる78になる親父と……いけねえ、元の長屋の2階へ忘れてきた」「こりゃ驚いた、親を忘れてくる人がありますか」

「なーに、親を忘れるくれぇ当たりめぇ、酒飲むと、ときどき我を忘れます」


「4月26日にあった主なできごと」

BC479年 孔子死去…古代中国の思想家で、「仁」を重んじる政治を唱えたくさんの弟子を育てた孔子が、亡くなったとされる日です。孔子の教えは、弟子たちの手で『論語』としてまとめられ、孔子を始祖とする思想・信仰の体系は「儒教」と呼ばれ、江戸時代には、もっとも大切な学問とされていました。

1863年 牧野富太郎誕生…明治・大正・昭和の3代にわたり、植物採集や植物分類などの研究に打ちこんだ民間の大植物学者となった牧野富太郎が生れました。

1986年 チェルノブイリ原発事故…ソ連(現・ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で、後に決められた国際原子力評価尺度において最悪のレベル7に分類された爆発事故がおこり、世界を震撼させました。ソ連政府は2日後にようやく事故を発表、のちに事故は運転員の規則違反と操作ミスが主な原因で、原子炉の設計にもミスがあったともいわれています。ソ連政府の発表による死者数は33名ですが、事故処理にあたった軍人や炭鉱労働者に多数の死者が確認されています。いまも被爆者は、やけどや白血病などに苦しめられており、長期的な観点から見た場合の死者数は、数十万人にものぼると指摘する専門家もいます。

投稿日:2012年04月26日(木) 05:03

 <  前の記事 「新撰組」 と近藤勇  |  トップページ  |  次の記事 「ナイロン」 のカロザーズ  > 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://mt.izumishobo.co.jp/mt-tb.cgi/2716

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

         

2014年08月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

月別アーカイブ

 

Mobile

児童英語・図書出版社 社長のこだわりプログmobile ver. http://mt.izumishobo.co.jp/plugins/Mobile/mtm.cgi?b=6

プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)