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花筏

「おもしろ古典落語」の66回目は、『花筏(はないかだ)』というお笑いの一席をお楽しみください。

「これは親方、ようこそおいで下さいました。ところで、患ってるとおっしゃっていた大関・花筏の具合はいががですか?」「実はそのことなんじゃ。医者から『動かしちゃ、いかん』といわれて困っておる。ところで、提灯の手間賃はどのくらいなんじゃ」「わずかなもんで。どう精を出しても、一日一分(一両の1/4)ですよ」「そうか…、どうじゃ、日に一両の手間を出すから、いっしょに来てくれないか」「4倍の手間ですか、じゃ、特別あつらいの大提灯でも…」

「そうじゃない。実は、房州の銚子というところから頼まれて、花相撲の興行を請け負った。向こうは花筏見たさなんだ。わしは承知をして前金を受け取って、病気を治そうといろいろ手を尽くしたが、いっこうに良くならない。日が迫って来たんで、『相撲をとるのは無理そうだ』といったら、『具合が悪かったら、土俵にあがらずに、控えに座って稽古を見てるだけでいい。それも駄目なら、金を返してほしい』っていう。金は医者代・薬代になっちまってるし…、そこでひょいと気がついたのが、あんたじゃ。顔が花筏とそっくりなだけじゃない、体つきもよく似ておる」「みんなによくいわれます。こっちもその気になって、大関の真似をしたりしてますが、そんなに似てますか」「色の黒いところ、おでこが出て、鼻が低いとこまで似てる。そこでだ、七日間、花筏の替え玉になって、銚子へいってもらいたい」

相撲は取らなくてもいいし、手間賃は4倍、その上、のみ放題・食い放題、どっかとあぐらをかき、相撲を見ていればいいというのですから、まことにおいしい話です。提灯屋は、承知して、銚子へ乗りこむことになりました。相撲の盛んな土地で、飛び入りで土地の者も大勢とっかかる中、きわ立って強いのが、千鳥ヶ浜大五郎と名乗る素人が、プロを相手に6日間勝ちっぱなしで、いよいよ明日が千秋楽。

こうなると勧進元は、「大関花筏─千鳥ヶ浜」の対戦を番付に組まないわけにはいかなくなりました。病人だと断っても「宿で聞いてみたら、酒は一日二升、大飯は食らうし、色ツヤはいい、あんな病人はない」といわれれば、親方も返す言葉がなく、しぶしぶ承知をしてしまいました。驚いたのは提灯屋、あんなすごい奴とやったら、投げ殺される。約束が違うから帰るというのを、親方がなだめすかします。

「わしにはちゃんと工夫がある。明日は大関を気取って、堂々と土俵に上がりなさい。軍配がかえったら、前へパッと手を出し、相手の体に触れたと思ったら尻もちをつくんだ」「じゃあ、はじめっから負けるんですか」「見物衆は『花筏は負けたが、病気上がりで腰が切れないんだろう』と病気のせいにしてくれる。大関の名に傷もつかず、素人さんに花を持たせて、めでたし、めでたしじゃ」

いっぽう、千鳥ヶ浜の親父は、せがれが明日大関と取り組むと知って、がく然。「向こうのプロは、今までわざと負けて花を持たせてくれたのがわからないのか」と、しかります。「明日は千秋楽だから、後は野となれで、腕の一本どころか、投げ殺されかねないぞ。どうしても取るなら勘当だ」と、言い渡しました。翌朝、千鳥ヶ浜は辞退しようとしましたが、もうすでに遅く、名前を呼び上げられ、いつの間にか土俵に押し上げられてしまいました。

提灯屋は、相手を見ると恐いから、目をつぶって仕切っていましたが呼吸が合いません。行司はいつまでたっても「まだまだッ」。しびれを切らして目を開けると、千鳥ヶ浜の両目がギラギラ光ったので、これは間違いなく命はないと悲しくなり、涙がポロポロ、脇の下から、冷や汗がタラタラ。思わず「南無阿弥陀仏」……。

これを見て驚いたのが千鳥ヶ浜です。土俵で念仏とは、さてはオレを投げ殺す気だと、こちらも涙がポロリ、冷や汗タラリで「南無阿弥陀仏」。両方で泣きながらナムアミダブツ、ナムアミダブツとやっていますから、まるでお通夜のよう。

行司は、しかたなく「ハッケヨイ」と立ち上がらせると、提灯屋は目をつぶって両手を突き出し、「わァッ」と後ろへひっくり返ろうとしましたが、千鳥ヶ浜は恐怖のあまり立ち遅れて、目と鼻の間に提灯屋の指が入り、尻もちをつきました。観客はどよめきました。「どうだい、さすがは花筏だ。一発で張り倒した」「あの張り手はたいしたもんだ」

張るのは上手なわけです、提灯屋ですから。


「4月6日にあった主なできごと」

1483年 ラファエロ誕生…ルネサンス期を代表する絵画、建築はじめ総合芸術の天才といわれるラファエロ が誕生しました。1520年に亡くなった日でもあります。

1896年 第1回オリンピック開催…古代ギリシアで4年に1度開催されたスポーツ競技を復活させようと、フランスの クーベルタン による提唱で国際オリンピック委員会(IOC)が1894年につくられ、この日ギリシアのアテネで近代オリンピック第1回大会が開かれました。参加国14か国、競技種目43種目、選手数240人と、小規模なものでした。

1919年 非暴力・非服従運動…インド独立運動の指導者 ガンジー は、支配国イギリスに対する非暴力・非服従運動を開始しました。この日、反英運動への取り締まる法律が施行されたのに、断食をして抗議したのをはじめ、イギリス製品の綿製品をボイコットして、伝統的な手法によるインドの綿製品を着用することを自ら糸車をまわして呼びかけるなど、不買運動を行いました。

投稿日:2012年04月06日(金) 05:32

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)