今日4月9日は、詩人・小説家・評論家として大正・昭和期に活躍した佐藤春夫(さとう はるお)が、1892年に生まれた日です。
和歌山県新宮町(現在の新宮市)に、代々続く医者の長男として生まれた春夫は、新宮中学に入学後に文学をこころざし、『明星』や創刊したばかりの『スバル』に短歌を発表するほどでした。1909年に町内で催された文学講演会に新宮を訪れた生田長江、与謝野寛、石井柏亭と知りあい、特にニーチェやハイネ研究で知られていた評論家の生田に親愛された春夫は、中学卒業後に上京。生田門下に入って、生涯の友となる堀口大学と知り合いました。この年、慶応義塾の教授となった永井荷風の教えを受けようと、堀口とともに慶応予科に入学、在学中から詩や短編を『三田文学』『中央公論』『スバル』などに発表しました。
1913年、慶応義塾を中退し、無名の女優と同棲しながら文学に打ち込み、口語詩が全盛だった大正期に、文語体の伝統的な詩型に新しい内容を盛り込んだ『殉情詩集』などが注目されるいっぽう、のちに代表作『田園の憂鬱』としてまとめられる『病める薔薇』を発表して、作家としても高い評価を得るようになりました。
1919年、谷崎潤一郎 と出会った春夫は、谷崎から文学的に大きな刺激を受け、親しい交際を続けました。当時、夫にうとまれていた谷崎の妻千代に同情していた春夫の心は、いつしか愛情に変わり、1921年千代をめぐって春夫と谷崎の間に三角関係が生じて、二人は絶交してしまいました。その後、春夫は他の女性と結婚したために谷崎との交友は復活しましたが、1930年、谷崎夫妻と話しあった結果、千代子夫人を春夫が譲りうけ、三人連名のあいさつ状を知人に送り、「細君譲渡事件」として新聞などに報道されて大センセーションを起こしたことはよく知られています。
詩集『我が1922年』に収録された有名な詩『秋刀魚の歌』には、千代への思慕が背景にあります。
あはれ秋風よ 情(こころ)あらば伝えてよ ──男ありて 今日の夕餉(ゆうげ)に ひとりさんまを食らいて 思いにふける と。
さんま、さんま そが上に青き蜜柑の酸(す)をしたたらせて さんまを食うはその男がふる里のならひなり。そのならひをあやしみなつかしみて女は いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかいけむ。あはれ、人に捨てられんとする人妻と 妻に背かれたる男と食卓にむかへば、愛うすき父を持ちし女の児は 小さき箸をあやつりなやみつつ 父ならぬ男にさんまの腸(はらわた)をくれむと言ふにあらずや。(中略)
さんま、さんま、さんま苦いかしょっぱいか。そが上に熱き涙をしたたらせて さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。あはれ げにそは問はまほしくをかし。
この詩を読むと、留守がちな谷崎の家を訪れ、千代と娘と3人で食事をした情景をうたいながら、黒煙を立てて焼けるサンマの姿に、自嘲的な姿を重ねた春夫の思いが目に浮かぶようです。
その後春夫は、詩ばかりでなく、小説『都会の憂鬱』『指紋』、長編小説『神々の戯れ』、歴史小説『菊水譚』、伝記小説『晶子曼荼羅』『小説永井荷風伝』などを次々に著わし、評論や随筆など広い分野でも活躍しました。1935年には、芥川賞設立とともに選考委員になり、27年間委員をつとめています。また、太宰治、檀一夫、井上靖ら多くの後輩から慕われたことで「門弟三千人」といわれ、1960年には文化勲章を受け、1964年ラジオの収録中に、独自の光彩をはなった72年の生涯を終えたのでした。
「4月9日にあった主なできごと」
752年 奈良大仏開眼…聖武天皇 の発案により完成した奈良の大仏の開眼供養会(魂入れの儀式)が行なわれました。1万人の僧がお経読む、盛大な儀式でした。
1865年 南北戦争終結…アメリカ合衆国の南北戦争は、1861年に北部23州と、南部11州の意見の食い違いからはじまりました。黒人のどれいを使うかどうかが主な対立点で、工業の発達していた北部はどれい制廃止、大きな農場主の多い南部はどれい制維持です。1860年にどれい制廃止を叫んだ リンカーン が大統領に当選すると、南部は、北部と分れて「アメリカ連邦」を設立して、戦争がはじまりました。当初は南部が優勢でした。1861年リンカーンは「どれい解放令」を出すと形勢逆転、1863年7月のゲッティスバークの戦いで決定的な勝利をした北部が主導権をにぎり、この日南部は北部に降伏し、5年にわたる南北戦争が終結しました。
1976年 武者小路実篤死去…『友情』『愛と死』『真理先生』などの小説、人生賛美あふれる人生論を著した 武者小路実篤 が亡くなりました。