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甲府ぃ

「おもしろ古典落語」の48回目は、『甲府(こうふ)ぃ』というお笑いの一席をお楽しみください。

ある豆腐屋の店先で、オカラを盗みぐいしている男がいます。店の若い衆が袋だたきにしようとするのを、主人がみとがめて、事情を聞いてみますと…

「わたしは、甲府育ちの善吉と申します。小さい時に両親をなくして、伯父夫婦に育てられましたが、今年20歳になりましたので、江戸に出てひとかどの人間になって、育ての親に恩を返したいと思いました。身延山をお参りをして、お祖師さまへ5年の間禁酒を誓いまして、かねて聞いていました浅草の観音さまへお参りをしようと存じまして、仲見世まで参りますと、わたしに突きあたったものがございます。お堂へあがって寺でお賽銭をあげようと、ふところへ手を入れてみますと懐中物がございません。ああ、それでは今のが巾着(きんちゃく)切りというものであったかと思いましたが、どうしようもありません。無一文になって宿屋へも泊れませんので、昨夜は観音様のお堂で夜をあかしまして、今朝ほど、お参りにいらした方に『この江戸で、奉公口を探してくれるところはありませんか』と聞きますと、葭町(よしちょう)の千束屋(ちづかや)という口入屋(くちいれや)があると親切に教えてくださいましたゆえ、そこをめざしての途中、お宅の前を通りますと、オカラの樽からポッポとと湯気が出ているのがいかにもおいしそうで、空腹のあまり、思わず口にしてしまいました。ご商売ものを無断でいただきまして、なんとも申しわけございません」

涙ながらに語る善吉を、気の毒に思った店主は、ちょうど家も代々法華宗、これもお祖師さまの引き合わせだと、善吉を家に奉公させることにしました。仕事は、豆腐の売り子です。給金は出ませんが、売上に応じて歩合が取れるので励みになります。こうして足掛け3年、休みなく「豆腐、ゴマ入り、がんもどき」と、売って歩きました。お世辞が上手で、愛想がよい上に、売り声も生まれつきの美声、なれるにしたがって「豆腐ぃ、ゴマぁ入り、がんもぉどき」売り声の節もうまくなりまして、善吉からしか買わないという女性客もたくさんついて、主人夫婦はどんなに喜んだかしれません。

ある日、娘のおなつも年ごろになったので、一人娘のこと、放っておくと虫がつくから、早く婿を取らさなければならないと夫婦で相談して、宗旨も合うし、真面目な働き者ということで、善吉に白羽の矢がたちました。幸い、おなつも善吉に気があるようす。問題は本人だとおかみさんがいうと、気の短い主人、まだ当人に話もしていないのに、善吉が断ったと思い違いして怒り出し「なにっ、あいつが嫌だなんていえる義理か。はじめてきやがったときに、オカラを食ったこと忘れたか? 拾ってやった恩も忘れて増長しやがったな、薪ざっぽ持ってこい」と、大騒ぎ。目を白黒させた善吉でしたが、自分風情がと遠慮しながらも結局承知し、めでたく豆腐屋の養子におさまりました。それからの善吉夫婦は、朝は暗いうちに起き、夜遅くまで身体を休めるひまもなく家業に励んだために店は大繁盛。近所に土地を買って家を建て、年寄り夫婦を隠居させました。

ある日、善吉が隠居のところへやって来て、「もう江戸へ出て足かけ6年になりますが、まだ甲府へは一度も帰ってませんので、伯父にも願がかなったと安心させたいし、両親の墓参りと身延山へのお礼を兼ねて、里帰りさせてもらえませんでしょうか」と申し出ます。おなつもついて行くというので、喜んで旅支度してやり、翌朝出発しました。

「ちょいと、ごらんよ。縁日へも行ったことがない豆腐屋の若夫婦が、今日はおそろいで、もし若旦那、どちらへお出かけで?」と聞かれた善吉…

「甲府ぃ、おまぁいり、願ほぉどき」


「11月11日にあった主なできごと」

1620年 メイフラワーの誓い…2か月前にイギリスのプリマス港を出航したメイフラワー号は、この日北メリカのケープコッドに到着。ピルグリム・ファーザーズと呼ばれる移民たちは船上で、自治の精神に基づき自由で平等な理想的な社会を建設することをめざす誓いをかわしました。こうして、1620年から1691年までの北アメリカにおけるイギリス植民地のさきがけとなるとともに、その精神はアメリカ民主主義の基となりました。

1840年 渋沢栄一誕生…幕末には幕臣、明治から大正初期にかけて大蔵官僚、実業家として活躍した 渋沢栄一 が、生まれました。

1881年 ドストエフスキー死去…「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」などを著し、トルストイやチェーホフとともに19世紀後半のロシア文学を代表する文豪 ドストエフスキー が、1881年に亡くなりました。

1918年 第1次世界大戦終結…前年アメリカ合衆国の参戦により、決定的に不利となったドイツは、この日休戦条約に調印。第1次世界大戦が終結しました。

1952年 ヘディン死去…87年の生涯を中央アジア探検にそそいだスウェーデンの探検家 ヘディン が、亡くなりました。

投稿日:2011年11月11日(金) 08:04

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)