今日11月10日は、トルコ革命の指導者でトルコ共和国の初代大統領となったケマル・アタチュルクが、1938年に亡くなった日です。アタチュルクは、「トルコの父」という敬称です。
オスマン帝国の領土だったギリシア北部にある「マケドニア」のサロニカに、1881年税関吏の子として生まれたムスタファ・ケマルは、12歳で地元の陸軍幼年学校に学びました。とても優秀だったために、1899年にはイスタンブールにある陸軍大学校へ進学しました。当時はトルコ皇帝による専制政治が行われており、ケマルはこれに反対する革新運動に加わっていたことが卒業まぎわになって発覚し、逮捕されてしまいました。なんとか1905年に卒業し、シリアの第5軍団に勤務しながら、「祖国自由協会」という秘密団体を作って政治活動をはじめました。1908年に「青年トルコ党」が革命をおこして議会政治が始まりますが、ケマルはこれには参加せずに軍務に専念します。1914年に第1次世界大戦がはじまると、軍司令官となって連合軍とたたかい、ダーダネルス海峡を死守する活躍をします。
しかしトルコは敗北し、1819年に政府がトルコに不利となる休戦条約を結ぶと、ケマルはこれに反対して民族解放軍を組織、1920年に、イスタンブール政府とは別にアンカラ大国民会議という革命政権を樹立し、イスタンブール政府が連合軍とのあいだで交わした「セーブル条約」という不平等条約を認めず、まもなくはじまったギリシア・トルコ戦争で、ケマル率いる国民軍がギリシアを撃破しました。
1922年、専制政治の現況となっていたスルタン(皇帝)制をやめさせ、翌年には連合国との間に「ローザンヌ条約」を結んで、大戦で奪われた土地と独立国としての主権をとりもどし、アンカラを首都とする「トルコ共和国」の建国を宣言しました。
初代大統領に選出されたケマルは、亡くなるまでの15年間その地位につき、1924年には共和国憲法を発布して、国教だったイスラム教を非国教として、政教分離政策を実施しました。さらに、女性の参政権を認め、文字革命をおこしてアラビア文字をやめてローマ字を国字とすることを提唱、太陽暦の採用など、近代国家となるための改革を次々に打ちだしていきました。大国民会議は、そんなケマルをたたえて1934年に「アタチュルク」という称号をおくったのでした。4年後に57歳の激動の生涯を終えますが、その功績は、いまも讃えられています。
「11月10日にあった主なできごと」
1619年 デカルトの決意…近代西洋哲学のもとを築き、哲学の父とよばれて歴史に名をのこした デカルト が、「コギト・エルゴ・スム」(われ思う、ゆえにわれあり)という独自の哲学の基本を決意した日です。
1871年 スタンリーがリビングストンを発見…アメリカの新聞記者スタンリーは、行方不明になっていた探検家 リビングストン を追い、アフリカ奥地で236日ぶりに発見しました。
1873年 内務省の設置…明治政府の実質上の中枢である内務省が設置され、大久保利通 が初代内務卿に就任。警察、地方行政など対民衆行政のすべてを掌握することになりました。
1928年 昭和天皇即位…京都御所で、昭和天皇の即位式が行なわれました。27歳で即位した天皇は、60年以上の在位期間に、太平洋戦争敗戦、玉音放送、人間宣言など、激動の時代を歩むことになりました。