「おもしろ古典落語」の44回目は、『てれすこ』というお笑いの一席をお楽しみください。
むかし長崎の浜辺で、珍しい魚が1ぴき捕れましたが、漁師が大勢集まっても、だれひとり名前を知ってる者がいません。これから先、困るだろうと奉行所に聞きに行きました。専門家の漁師がわからないものを、侍がわかるわけはなく、古い書物を調べても出ていないため、その魚の姿かたちを紙に写しとりまして、高札を立てました。『このたび、かような珍魚がとれた。この魚の名を存じうるものは申しいでよ。ほうびとして金百両をつかわすものなり』
このうわさを聞いて、近在から人が押し寄せますが、名乗りでるものがありません。そのうち、多度屋茂兵衛という商人がやってきて、「これは『てれすこ』と申す魚にございます」と申し立てました。役人の方はあやしいとは思っても、本当かウソか証明できませんで、茂兵衛は、まんまと百両をせしめました。
役人が、このことを奉行に申し上げると、しばらく思案していましたが、魚を干物にしてみろと命じました。小さくなって、もとの形とはだいぶ違って見えます。こうして、前と同じような高札を出しました。計略とは知らない茂兵衛は、欲にかられてまた奉行所に出向きます。
「うむ、先だって、かの珍魚を『てれすこ』と申せし多度屋茂兵衛と、同人であるな」「さようでございます」「その方、いかなるわけで数多くの珍魚の名を存じおるのじゃ」「むかしから、回漕問屋をいとなみおりまして、いかなる珍魚の名も存じております」「して、このたびの珍魚は何と申す」「これは『すてれんきょう』と申します」「なに? 『すてれんきょう』…これ茂兵衛、ようくうけたまわれ、これは先だってそちが『てれすこ』と申し魚を、干しただけのものであるぞ。ひとつ魚なるに、出まかせの名前で上をいつわり、百両かたりとった、不届き者め!」と、取り調べのために、牢屋へぶちこまれてしまいました。
むかしは、十両盗んだだけで首が飛ぶ時代です。それを百両もお上からふんだくったのですから、後日取り調べのために引き出された茂兵衛、ひげはぼうぼう、やせおとろえ、すっかりしょげかえっていました。「多度屋茂兵衛、おもてをあげよ。その方、『てれすこ』と申せし魚をまた『すてれんきょう』と申し、金子をかたり取ったる罪軽からず。よって打首を申しわたす」という世にいう「てれすこ裁判」の判決でした。
最後に何か望みがあれば、一つはかなえてくれるというので、茂兵衛うなだれて「妻子に一目、お会わせを願いとう存じます」やがて、やせ衰えたかみさんが、乳飲み子を抱いて出頭してきました。茂兵衛が驚いてようすを聞くと、亭主の身の証が立つようにと、断食をしていた。赤ん坊のお乳が出ないのはかわいそうなので、そば粉を水で溶いたものをすすっていた、といいました。
「それほどわしの身を案じてくれてありがとう。もう死んでいく身、思い残すことはないが、子どもが大きくなっても、決して『いか』の干したのを『するめ』といわせてくれるな」と茂兵衛は遺言します。当時は、正面きってお上に言葉をかえすことができない時代。これを遠回しにいったことを伝え聞いた奉行、小ひざをたたいて「多度屋茂兵衛、その方のいいわけ相立ったぞ、罪ははれた。『生で「てれすこ」干して「すてれんきょう」か、よくぞ名づけた』百両金も下げわたすぞ」「へ、へぇ、ありがとうございます」首がつながった上に、また百両、こんなめでたい話はありません。
かみさんが火物(ひもの)断ちした上、遺言に「するめ」を出したんで「あたりめ」ぇ、ですかね。
「10月19日にあった主なできごと」
1956年 日ソ国交回復…「日ソ共同宣言」をモスクワで正式調印し、国交が回復することになりました。1951年に日本と連合国48か国とのあいだで講和条約が成立していましたが、ソ連がこの条約調印しなかったため、国交がとだえたままでした。これにより、日本は国際連盟に加盟することができました。
1987年 ブラックマンデー…ニューヨークの株式市場で、株価が22.6%の下落という史上最悪の下げ幅を記録し、世界各国の経済を大混乱におとしいれました。