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早熟の天才詩人・ランボー

今日10月20日は、フランス象徴主義の代表詩人のランボーが、1854年に生まれた日です。ランボーが詩作をしたのは、15歳から20歳までのわずか5、6年にすぎませんでした。

フランス北東部のシャルルビルに、軍人の子として生まれたアルチュール・ランボーは、1860年に両親が離婚したため、母親に育てられました。幼い頃から知的能力を発揮して、8歳のころには大人顔負けの文を綴るようになっていました。15歳の頃から詩作をはじめるようになり、1870年にはアカデミーのコンクールに、ラテン語詩部門の一等賞をとり、文壇でも注目されはじめました。

普仏戦争がはじまると、家出をくりかえしベルギーなどを放浪しながら、生きる喜びや自由を歌った独創的な詩を書いていました。ところが3度目の旅からもどるとすっかり性格が変ってしまい、初期の頃の詩を破棄して人生に対する嫌悪、善と悪との抗争などを、激しい言葉で内面を吐露するようになります。既成の宗教、道徳、因習的な規律に対する反逆するうちに、働くことを拒否し、カフェで飲んだくれた日々を送るようになりました。まもなく、当時有名になっていた詩人ベルレーヌに、新しく出来た詩『母音のソネット』の見本を送りました。

Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青 母音たち。
おまえたちの穏密の誕生をいつの日か私は語ろう。
A、眩いような蠅たちの毛むくじゃらの黒い胸衣は
むごたらしい悪臭の周囲を飛びまわる、暗い入江……

この詩の新鮮さに驚いたベルレーヌは、1871年に旅費を送ってランボーをパリに呼びよせました。翌年ベルレーヌは、妻子を捨ててランボーといっしょにロンドンへ渡りました。こうして、二人は同性愛的な関係となり、けんかをして別々になるなど出会いをくりかえし、フランス、ベルギー各地を放浪しながら詩作をつづけました。ランボーのベルレーヌに対する態度は、サディスティックな残酷さと、それを悔いての優しさとの間を往復していたようです。

しかし、二人の関係は長くつづきませんでした。1873年、もう一度ロンドンへ渡っていっしょに暮らそうと誘うベルレーヌに、ランボーがきっぱり断るとベルレーヌはランボーに拳銃を2発発砲、うち1発がランボーの左手首に当り、ランボーは入院、ベルレーヌは逮捕されてしまいました。この別れの後に、ランボーは、代表作となる散文詩集『地獄の季節』『イリュミナシオン』を著しました。のちに、ベルレーヌが『呪われた詩人たち』(1884年刊) のなかでランボーの詩の抜粋を発表したことが、ランボー人気に火をつけたのでした。

その後のランボーは、外国をめぐる商人として生活するようになり、1891年に亡くなりました。わずか20歳で詩作を放棄したランボーですが、ダダイストやシュルレアリストら20世紀の芸術家たちに大きな影響を与え、わが国でも中原中也、西条八十、小林秀雄、金子光晴、吉本隆明らたくさんの文学者に影響を与えています。


「10月20日にあった主なできごと」

1180年 富士川の合戦…源頼朝率いる源氏と平氏軍が駿河の富士川で合戦を行いました。この戦いで、平氏軍は水鳥が飛びったった水音を夜襲と勘違いして敗走しました。

1856年 二宮尊徳死去…幼い頃に両親を失いながらも刻苦して小田原藩士となり、各地の農村の復興や改革につくした江戸後期の農政家・二宮尊徳 が亡くなりました。

1879年 河上肇誕生…『貧乏物語』『資本論入門』『自叙伝』などの著作で知られ、日本におけるマルクス主義の考えを推し進めた経済学者 河上肇 が生まれました。

1967年 吉田茂死去…太平洋戦争敗戦の翌年に首相に就任、以来5回にわたって首相をつとめ、親米政策を推進して日米講和条約、日米安保条約を締結した 吉田茂 が亡くなりました。

投稿日:2011年10月20日(木) 07:46

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)