児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ Top >  おもしろ落語 >  目黒のさんま

目黒のさんま

「おもしろ古典落語」の40回目は、『目黒(めぐろ)のさんま』というお笑いの一席をお楽しみください。

江戸時代は、士農工商といって、身分制度がはっきりしていました。一番位の高い武士の中でも、お大名といえば、ご先祖が命がけで弓や鉄砲の下をかけまわって、ようやくはい上がって何万石という出世をするという英雄であり、豪傑でもありました。ところが平和な時代が長く続き、三代目、四代目ともなると、ただ大名の家に生れたというだけで、ニューっと育った、もやしみたいなのが殿さまになります。

「これ、三太夫はおらぬか、三太夫!」「ははぁ、金弥めにござりますが、なにか?」「おう、そちでよい。どうじゃ、今日はよい天気であるな」「御意にございます」「されば、武芸鍛錬のために、遠乗りをいたそうと思う」「遠乗りなれば、下屋敷から遠からぬ目黒のあたりがよろしいかと…」「そうか、では、支度をいたせ。馬を引け! 後につづけ」ハイヨーッ、パカパカ…と、殿さまが飛び出しました。驚いたのは家来たち、あわてて、めいめいの厩へ飛んでいって馬を引き出すと、殿さまのあとを追いかけました。

殿さまのほうは、最初にパーッと乗り出しましたが、ふだんはあまり馬にのりつけてないため、木製の鞍(くら)でゴツンゴツンとやられて、目黒についたころはもう乗っていられなくなり、だらしなく馬からおりて、尻をさすっているところへ……「ああっ、遅くなりまして…どうぞ、ご乗馬を…」「もし戦場において、馬をやられたる場合、そのほうどもはいかがいたす?」「はっ、馬を射られたる場合は徒歩(かち)にて、戦います」「ううむ、よう申した。しからば、足を鍛えておかねばならぬのぅ。向こうを見よ、小高き丘のいただきに松の木がはえておる。あの松まで、そのほうどもとかけ比べじゃ、余に遅れをとるのでないぞ、参れっ!」

殿さまがたったと走り出したので、家来どもあわてて後を追いかけます。少し前に行こうとすると、「主人より前へ出るやつがあるか」といいますから、追い抜くこともできません。ようやく丘へたどりつくと「そのほうどもは、やはり余にはかなわんな」と勝手なことをいってます。そのうち、「余は空腹をおぼえたぞ、弁当をもて! なに? 弁当は持っておらぬか」主従一同、がっかりした顔で松の根かたに腰をおろしていると、近くの農家で焼いているサンマの匂いがプーンと漂ってきました。

「これ金弥、この異なる匂いはなんであるか?」「これは、サンマと申す下司魚(げすうお)でございまして、下民(げみん)の食すもの、高貴なおかたのお口に合いませぬが」「黙れ、武士がいったん戦場へまいって腹がへっておっては戦ができぬ、苦しゅうない、そのサンマとやらに目通り許す、これへもて」

家来たちはしかたなく、匂いを頼りに探しに行くと、一軒の農家で、サンマをジュウジュウ、プウプウ焼いています。さっそく、焼きあがったばかりのサンマを10本も買い上げてきて、殿さまの前に出されます。たっぷりあぶらののりきったサンマが、ジュウジュウ音をたてています。「おう、美味である。かわりをもて!」と、あらかた一人で食べてしまいました。「金弥、かような美味なるものがあるとは、余は少しも存ぜぬであった。これから館に帰り、三度三度サンマを食すぞ」「それは困ります。サンマを食したなどは内聞でございます。これが重役がたにわかりますれば、われら一同、大いに迷惑をいたします」「さようか、しかたがない。内聞にいたしておこう」

それからというもの、殿さまの頭の中は、あのおいしかったサンマのことでいっぱいになります。でも、約束した以上、三太夫にもいえません。そんなある日のこと、親戚のお屋敷によばれた殿さま、「なんなりと、お好きなお料理を」といわれ、「サンマ」と答えました。驚いたのは料理人です。早馬をとばして、日本橋の魚河岸へとんでいき、極上のサンマを仕入れてまいりました。しかし、こんなあぶらの強いものをさしあげて、お腹をこわすようなことがあってはならないからとあぶらを全部ぬき、骨があってはのどにひっかかってあぶないと小骨を毛抜きでぬいて、これを吸い物にして、殿さまの前に運んできました。

殿さまは、ジュージュープスプスが出てくるかと待ちかねていたところに、お椀がでてきました。「なんだ、これがサンマ? ふしぎなサンマであるな」お椀のふたをとってみると、わずかにサンマの匂いがします。「おう、これである。いやぁ、久しかった。まちかねておったぞ」とひとつ口に入れたところ、まずい。「このサンマは、いずれより仕入れたのだ?」「はい、日本橋の魚河岸でございます」

「いや、それはいかん。サンマは目黒にかぎる」


「9月22日にあった主なできごと」

1791年 ファラディ誕生…電気分解の法則や電磁誘導の法則の発見などの業績により「電気学の父」いわれるイギリスの科学者 ファラデー が生まれました。

1852年 明治天皇誕生…父孝明天皇の死後、1867年に即位した 明治天皇 がうまれました。

1862年 リンカーン奴隷解放宣言…第16代アメリカ合衆国大統領 リンカーン は、2年前に合衆国から脱退したアメリカ南部連邦11州との戦い(南北戦争)の最中、「翌年1月1日から奴隷解放を実施する」という歴史に残る宣言を布告しました。

1868年 会津若松城落城…4月の江戸城無血開城のあと、会津藩は、仙台・盛岡・米沢・庄内などの諸藩と同盟して、薩摩・長州などを中心とした官軍とたたかいましたが、この日降伏して開城、半年近くに及ぶ会津戦争は終わりました。

1878年 吉田茂誕生…太平洋戦争敗戦の翌年に首相に就任、以来5回にわたって首相をつとめ、親米政策を推進して日米講和条約、日米安保条約を締結した 吉田茂 が生まれました。

投稿日:2011年09月22日(木) 07:30

 <  前の記事 『チゴイネルワイゼン』 のサラサーテ  |  トップページ  |  次の記事 古学派の祖・山鹿素行  > 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://mt.izumishobo.co.jp/mt-tb.cgi/2522

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

         

2014年08月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

月別アーカイブ

 

Mobile

児童英語・図書出版社 社長のこだわりプログmobile ver. http://mt.izumishobo.co.jp/plugins/Mobile/mtm.cgi?b=6

プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)