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子別れ

「おもしろ古典落語」の37回目は、『子別(こわか)れ』というお笑いの一席をお楽しみください。

「大変だね、棟梁。ちょっと出かけるのにも、隣に頼まなくちゃならないってのは」「へぇー、どうもね、ひとりじゃしょうがありませんで。女やもめに花が咲き、男やもめにウジがわくっていいますが、どうもいくじがございません」「そういっちゃなんだが、あの二番目のおかみさんてぇのは、よほどひどかったらしいな」「へぇ、どうしてあんなばかな女に迷ったかと思うようですが…、なにしろ朝寝して昼寝して宵寝をしやがんですから」「じゃ、一日寝てるんじゃないか」「酒ぇくらって鼻歌ばかり唄ってやがんで、忌々しいから、たたきだそうと思ったら、なぁに、向こうからさっさとおん出てくれました。こいつはいけねぇと思ったんで、好きな酒も絶ちまして、一生懸命稼ぐようになったんで」「結構なことだ。まじめに仕事をしてくれりゃ、腕はいいんだ、店の評判はいいし、わたしも喜んでるんだが…、で、先のおかみさんはどうしたんだい?」「…へぇ、貧乏なれがしてるっていうか、世帯のくりまわしがうまい女でした」「棟梁、たまには、おかみさんのことを思い出すことがあるんだろ」

「かかぁのことより、思い出すのは息子のことでございます」「そうだ、男の子があったね。ええっと、亀ちゃんてんだったな。うん、覚えてる、かわいい子だったね、いくつだ」「あれから3年ですから、十…一でございます」「かわいいさかりだね、どこにいるんだい?」「野郎の音沙汰ァ、まるっきり知りませんが、表へ出て、おんなじ年頃の子を見ると、うちのやっこじゃねぇかと思って…こねぇだも、菓子屋の前を通りますと、饅頭をふかしてる。せいろのフタをとると、ポワッと湯気が出てるんで、あぁっうまそうだな、野郎が饅頭が好きだったが、買って食わしてやったらどんな面ぁするだろう、と…思わずあっしは饅頭見て、涙こぼしちゃいましてね…へへへへ、親なんていうものぁ、ばかなもんでございますよ」「それが、ほんとうの情というもんだよ…おい、棟梁、噂をすれば影というが、いま、しゃがんでなにかしてる、絣の着物を着ているあの子、亀ちゃんじゃないか」「へぇ…そうです。動いてやがる」「ひとこと言葉かけておやりよ、あたしは一足先へ行ってるから」

こうして、大工の熊五郎は、亀坊に声をかけ、3年ぶりの再会を果たします。夫婦別れした後のかみさんは、炭屋の二階に間借りして、近所の仕立て物をしながら亀坊を育てているという。熊はせがれに五十銭の小遣いをやって、かみさんのくわしいようすを聞くと、かみさんは熊のことを思い切っていないらしいとわかる。内心喜ぶものの、まだ面目なくて会えません。その代わり、明日鰻を食わせてやると亀坊と約束します。

一方、家に帰った亀坊、もらった五十銭を母親に見つかり、熊から、おっかさんにはいうなと口止めされているため、しどろもどろで、知らないおじさんにもらったとごまかします。賢い母親は聞き入れません。「貧乏はしていても、おっかさんはおまえにひもじい思いはさせていない。人さまのお金をとるなんて、何てさもしい料簡を起こしてくれた。金槌で頭をぶつよ」と泣いてしかるものだから、亀坊は隠しきれずに父親に会ったことを白状してしまいます。

それを聞いた母親、ぐうたら亭主が真面目になり、女ともとうに手が切れたことを知り、こちらもうれしさを隠しきれません。でもやはり、まだよりを戻すのははばかられます。その代わり、翌日亀坊に精一杯の晴れ着を着せて送り出してやりますが、自分もいても立ってもいられず、そっと後から鰻屋の店先へ……。こうして、子どものおかげでめでたく夫婦が元の鞘に納まって「子どもは夫婦の鎹(かすがい)ですね」というと、

「やぁ、あたいが鎹だって? どうりできのう、金槌で頭をぶつといった」


「9月2日にあった主なできごと」

BC31年 アクチュームの海戦…シーザーの暗殺後、ローマはオクタビアヌスとアントニウスと権力争いが始まっていました。この日アクチュームの海戦がおこり、両軍1000隻の軍船が槍、火矢、投石で交戦し、オクタビアヌスが勝利しました。アントニウスはクレオパトラと共にエジプトにもどりましたが、翌年アントニウスは剣で、クレオパトラは毒蛇に胸を咬ませて自殺しました。

1937年 クーベルタン死去…古代オリンピア遺跡の発掘に刺激されてオリンピックの復活を提唱、1896年ギリシアのアテネで近代オリンピックの開催を実現した「近代オリンピックの父」 クーベルタン 男爵が亡くなりました。

1945年 日本の降伏…東京湾上に浮かんだアメリカの軍艦ミズリー号の艦上で、連合国側に対する日本の降伏文書の調印式が行なわれました。日本全権団は重光外相他11名、連合国軍は9か国それぞれの代表とマッカーサー最高司令官が署名し、ここに満州事変から15年にわたる日本の戦争に終止符がうたれました。

1949年 アジア象はな子…タイから寄贈された象が日本に到着、戦争中に餓死させられた象「花子」の名前を継いで「はな子」と命名されました。はな子は、1950年に始まった上野動物園の「移動動物園」企画で全国や東京都下を巡回しましたが、武蔵野市や三鷹市ではな子の誘致運動が起こり、1954年に上野動物園から井の頭自然文化園に引っ越しました。64歳の今も健在です。

投稿日:2011年09月02日(金) 07:05

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)