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鹿政談

「おもしろ古典落語」の35回目は、『鹿政談(しかせいだん)』というお笑いの一席をお楽しみください。

奈良・春日大社にいる鹿は、神のお使い・神鹿(しんろく)といわれて、特別に大切にされています。たとえ過失であってもこれを殺した者は死刑にするというのですから、こわい話です。そのおかげで鹿どもはずうずうしくのさばり、人家の台所に入りこんでは食い荒らすので、町人は迷惑していますが、ちょっとぶん殴っただけでも五貫文の罰金が科せられるため、どうすることもできません。

興福寺の門前に「正直・与兵衛」といわれている豆腐屋がありました。あだ名の通り、実直で親孝行、困っている人があれば、着ているものをぬいでもほどこしてやろうという人情家です。その日、いつものようにまだ暗いうちに起きて、石臼で豆をひいていると、戸口で何やら物音がします。外に出てみると、湯気の立ったキラズ(豆腐のしぼりかす=おから)の樽がひっくり返され、大きな犬が頭をつっこんで、ムシャムシャ食べています。おのれ、大事な商売物をと、与兵衛、思わず頭に血がのぼって、そばにあった薪を、思いきり投げつけました。当たりどころが悪かったのか、泥棒犬はそのまま伸びてしまいました。ところが、暗闇でよく見えなかったのが不運で、犬と思ったのが、まさしく春日の神鹿だったのです。

根が正直者ですから、死骸の始末など思いも寄らず、家族ともどもあらゆる介抱をほどこしますが、息を吹き返しません。そのうち近所の人も起き出して大騒動。与兵衛はたちまち、鹿の守役の塚原出雲の屋敷に引っ立てられてしまいます。すぐに守役と興福寺の番僧・了全の連名で、訴状をしたためて奉行に願書を提出、名奉行・根岸肥前守の取り調べとなりました。

肥前守は、与兵衛が正直者であることは調べがついているので、なんとか助けてやろう思い、その方は他国の生まれであろうとか、二、三日前から病気であったであろうなどと助け船を出しますが、六兵衛は「お情けはありがたいが、私は子どものころからうそはつけない。鹿を殺したに相違ござりまへんので、どうか私をお仕置きにして、残った老母や女房をよろしく願います」と、答えるばかり。

困った奉行、鹿の死骸を引き出させ「うーん、鹿に似たるが、角がない。これは犬に相違あるまい。一同どうじゃ」「へえ、確かにこれは犬で…」。ところが守役の出雲「これはお奉行さまのお言葉とも思われませぬ。鹿は毎年春、若葉を食しますために弱って角を落とします。これを落とし角と申し」「だまれ。さようなことを心得ぬ奉行と思うか。さほどに申すなら、出雲、了全、その方ら二人を取り調べねば、相ならん」二人が結託して幕府から下される三千石の鹿の餌料を着服し、あまつさえそれを高利で貸し付けてボロ儲けしているという訴えがある。鹿は餌代を減らされ、ひもじくなって町へ下り、町家の台所を荒らすのだから、神鹿といえど盗賊同然。打ち殺しても苦しうない。「たってとあらば、鹿の餌料の取り調べを先にいたすが、どうじゃ?」といわれ、出雲も了全もグウの音も出ません。

「どうじゃ。これは犬か」「サ、それは」「鹿か」「犬鹿チョウ」「何を申しておる。犬ならば、とがはない。願書はさしもどす」。こうして、与兵衛はお解き放ち。「これ、正直者のそちなれば、この度はキラズ(切らず)にやるぞ。油げ(危なげ)のないうちに早く引き取れ」

「はい、健在(まめ)で帰ります」


「8月18日にあった主なできごと」

1598年 豊臣秀吉死去…織田信長の後をついで天下統一を果たし、絢爛豪華な安土桃山時代を築いた武将 豊臣秀吉 が亡くなりました。

1850年 バルザック死去…「谷間の百合」や「ゴリオ爺さん」など、「人間喜劇」と名づけた作品群を遺したフランスの作家 バルザック が亡くなりました。

1930年 細君譲渡騒動…作家の 谷崎潤一郎 と、その妻千代子が離婚し、谷崎の友人の作家佐藤春夫が千代子と再婚するという細君譲渡騒動がおきました。このことを書いた挨拶状が関係者に送られたため、一大センセーションがまきおこりました。

1949年 フジヤマの飛び魚…ロサンゼルスで開かれた全米水上選手権大会に出場した古橋広之進は、1500mと400m自由形他で世界新記録を連発。アメリカの新聞は「フジヤマの飛び魚」とたたえ、敗戦でうち沈んでいた日本人を勇気づけました。

1966年 中国文化大革命…中国の首都北京で、中学生や大学生を中心とする紅衛兵100万人が文化大革命の勝利を祝う大集会を開きました。この文化大革命運動は、共産党内の反毛沢東分子や親ソ連派を「資本主義の復活をはかる実務派」として打倒、翌年4月の九全大会で、毛沢東、林彪路線を確定することになりました。

投稿日:2011年08月18日(木) 06:08

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)