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陸軍中枢部に抹殺された北一輝

今日8月19日は、大正・昭和期の国家社会主義者で、「2.26事件」の理論的指導者として死刑となった北一輝(きた いっき)が、1937年に亡くなった日です。

1883年、新潟県佐渡島の海産問屋の長男に生まれた北一輝(本名・輝次郎)は、中学時代から文芸に興味を持ち、「平民新聞」などを読んで、社会主義運動に共鳴するようになりました。1901年ごろから「佐渡新聞」に寄稿するようになり、対ロシアとの緊張関係にある国家はどうあるべきかを、真剣に考えるようになっていきました。

1905年に上京、早稲田大学の聴講生となって社会主義を研究し、翌年『国体論及び純正社会主義』を著し、独自の社会主義論で一躍注目を浴びました。執筆中は、ほとんど外出もせずに原稿用紙に向かってひたすら書き続け、ゆきづまると爪をかみ、指から血が出るほど集中したといわれています。

その後、中国革命同盟会に参加して上海へ行き、中国人革命家と交わるうち「辛亥革命」に参加しようとしましたが、革命運動に見通しを失って、国家社会主義へ近づくようになります。1913年に帰国して『支那革命外史』を書き、1916年にふたたび中国へ渡り、3年後に上海で、『国家改造案原理大綱』を発表しました。40日の断食を経て書かれた本書は、1923年に加筆修正されて『日本改造法案大綱』に改題され、日本ファシズム運動のバイブルとなりました。日本政治を改革するためには、「左翼的革命に対抗して右翼的国家主義的国家改造をやることが必要である」と、その目的を語っています。

「満州事変」のおこった1931年ころから、北は、陸軍青年将校と親しく交わるようになり、右翼の大物、青年将校運動の黒幕とされるようになりました。三井財閥は、彼らの情報を得ようと、北へ巨額の生活資金を与えはじめていました。そのころの陸軍は、軍内の統制を強化することによって政治力を強めようとする「統制派」と、青年将校たちの「皇道派」と対立していました。やがて、陸軍中枢部が統制派の勢力に握られると、皇道派たちは抑圧され、それが、1936年の「2.26事件」となりました。皇道派の荒木・真崎両陸軍大将をおしたてようと、青年将校たちは、統制派の中心人物の渡辺教育総監をはじめ斉藤内大臣や高橋大蔵大臣ら、政府の要人を暗殺したり重傷を負わせたのです。

北は、事件の数日前に青年将校たちからクーデターの情報を得ていたものの、具体的な計画や、実行にはかかわっていませんでしたが、理論的首謀者とされ、軍法会議にかけられて、処刑されたのでした。皮肉なことにそののちの日本は、皇道派が握ることになり、軍部の力で国を動かし、中国を侵略し、太平洋戦争へとまっしぐらに進んでいったのです。


「8月19日にあった主なできごと」

1662年 パスカル死去…液体の圧力に関する「パスカルの法則」や、随想録「パンセ」の著書で有名な物理学者・哲学者 パスカル が亡くなりました。

1832年 ねずみ小僧の処刑…「ねずみ小僧次郎吉」といわれる大泥棒が、鈴が森刑場でさらし首の刑に処せられました。ねずみ小僧は15年間に、大名などの武家屋敷100か所から1万両もの大金を盗み、貧しい人たちに配ったという逸話が伝えられ、ねずみ小僧を主人公にした小説が、芥川龍之介、菊池寛、吉行淳之介らたくさんの作家に書かれています。

1929年 ツェッペリン号日本着陸…ドイツの飛行船「ツェッペリング伯号」が世界周航の途中、霞ヶ浦飛行場に到着。全長240mもの巨船に、日本中が大騒ぎになりました。飛行船の時代が来るかと思われましたが、可燃性や操縦の困難性を克服できず、次第にすたれていきました。

投稿日:2011年08月19日(金) 06:32

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)