今日8月22日は、室町幕府第3代将軍で、南北朝の合一を果たし、「金閣寺」を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた足利義満(あしかが よしみつ)が、1358年に生まれた日です。
室町幕府を開いた足利尊氏の孫として生まれた義満は、父の義詮(よしあきら)のあとをついで、わずか10歳で将軍となり、初めは、幕府最高職の管領をつとめる細川頼之の助けをかりて、政治を進めました。とくに、幕府の力を強めることと、財政を豊かにすることに努力しました。誕生して30年しかたっていない室町幕府は、まだ、しっかりしたものになっていなかったからです。
将軍になって10年後、自分の力で政治を動かしていくことを決心した義満は、京都の室町に大きな屋敷を建てました。広い庭には四季の花が咲きみだれ、人びとは 「花の御所」 と呼んだということです。
義満は、まず、幕府の威力を示して全国を統一するために、諸国をめぐりました。そして、幕府内で義満に不満をもつ関東の足利氏満、山陰で反抗をつづける山名氏清などをおさえ、国じゅうの武士を支配する夢をなしとげていきました。
つぎには、1336年いらい南朝(吉野)と北朝(京都)のふたつになっていた朝廷を、ひとつにまとめることに力をつくしました。祖父の尊氏が室町幕府をおこしたときに始まった朝廷の分裂は、幕府を1日も早く安定させるのに差しさわりがあったからです。義満は、南朝と北朝が交代で天皇をつとめることを提案して、1392年に、南北統一のねがいを果たしました。
1394年、36歳の義満は将軍職を息子の義持にゆずり、自分は公家の最高官位の太政大臣の位につきました。天下をおさめるために、武家と公家の両方を支配する権力を自分のものにすることを、のぞんだのです。
京都の北山に金色に輝く金閣寺(鹿苑寺)を建てたのは、1397年のことです。1階を公家風の寝殿造、2階を武家風の書院造、3階を禅宗風の仏殿とした金閣には、武家、公家のほか社寺までも支配しようとした義満の気持ちが、よく表われているといわれています。
その後の義満は、天皇と同じようなふるまいをして、権力の大きさを誇り、金閣を建ててからおよそ10年のちに、金閣のようにはなやかな生涯を50歳で終えました。もう少し長く生きたら、ほんとうに天皇の位にまであがったかもしれません。
義満は、権力をふるういっぽう、明(中国)との貿易をさかんにしました。また、ぜいたくな生活を楽しみながら、猿楽、連歌、茶の湯、絵画などの文化を大切にしました。この時代の文化を、金閣の地名から名づけて北山文化とよびます。
「8月22日にあった主なできごと」
1910年 日韓併合…日本は明治のはじめころから、朝鮮半島を勢力範囲にしようと乗りだしていましたが、日清戦争・日露戦争に勝利してからは徐々に植民地化していきました。やがて軍事、外交、警察権を奪い内政にまで干渉するようになったことに対し、反日運動が強まり、1909年に初代統監となった伊藤博文射殺事件がおきました。日本政府はこれを期に、朝鮮政府に圧力をかけ、日韓併合の条約に調印をさせました。
1943年 島崎藤村死去…詩集『若菜集』『落梅集』で、近代詩に新しい道を開き、のちに『破戒』や『夜明け前』などを著した作家 島崎藤村 が亡くなりました。
1981年 台湾で飛行機事故…台北市に本拠をおいていた遠東航空の旅客機が、台北-高雄間を飛行中に空中分解して墜落、乗員乗客110人が全員死亡しました。この中に直木賞作家の向田邦子が含まれていて、日本社会に衝撃がおこりました。