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そば清

「おもしろ古典落語」の19回目は、『そば清(せい)』というお笑いの一席をお楽しみください。

世間にはよく「そば好き」という人がいます。ちょっとそばを食べても、5、6枚は食べないと食べたような気がしないなんていう、大変なそば好きもいます。

江戸に、清兵衛さんという旅商人(あきんど)がいました。小間物なんぞを持って旅に出て売るのが仕事ですが、この人は「そば清」といわれるほどそばが好き。10枚でも、20枚でも食べられるものですから、食べ比べのかけに誘われても負けたことがありません。ところが、だんだん名前が知られてくると、ちょっとやそっとの枚数では、かけに乗ってくれる人がいなくなりました。

ある時、清兵衛さんは、越後(今の新潟)から信州(今の長野)の方へ商売にでかけました。その途中どう間違えたのか、道に迷ってしまいました。「こりゃ、弱ったな、どっちを向いても山ばかり、里に出るにはどっちへ行ったらいいのだろう。誰か聞ける人がいないかな」と、向こうを見ますと、ひとりの狩人が、鉄砲で何かをねらっています。いったい何を撃つんだろうと、鉄砲の先を見ると、木の上に大きなウワバミ(巨大なへび)がトグロを巻いていて、こちらも狩人をねらっているようです。ドーンと鉄砲の音がしたと思ったら、姿が消えたのは狩人のほうで、ウワバミが狩人を飲みこんだのでした。

人間一人を飲みこんだのですから、さすがのウワバミも大きくお腹がふくれあがって、苦しそうです。しばらくのたうちまわっていましたが、そのうち、かたわらに生えていた黄色い草を、長い真っ赤な舌でペロペロなめだしました。すると驚いたことに、はちきれそうだったお腹がたちまち小さくなって、元のようになりました。ウワバミもいい気持ちになったとみえて、隠れて震えていた清兵衛さんに気づかずに、熊笹をガサガサやりながら、岩かげに消えてしまいました。

「何だろう、ウワバミがペロペロなめていた草は? ははーん、あれは食べものがこなれる草だ…こいつはいいものを見つけたぞ。あいつをむしって持って行って、江戸でそば食いのかけをして、うんと儲けてやろう」こう思った清兵衛さんは、草をむしり取ると、何とか道を見つけて江戸へ戻ると、そば屋へかけこみました。

「どうです? 私がそば70枚食べられるかどうか、かけをする人はいませんか?」これを聞いて、お客さんがたくさん集まってきました。いくら清兵衛さんでも、70枚は食べられないだろうと、どんどんかけに応じる人が出てきて、ついにかけ金は10両にもなりました。

「それじゃやってみますが、まず半分くらい食べたところで、たばこを2、3服吸うあいだ、ちょっと待ってもらいたいんですが、よろしいかな」「もちろん構いませんよ。お中入りがなくちゃ、疲れちゃいますもんね。それじゃ、70枚のそばを注文してきますよ」ということで、そば70枚が積み上げられました。

「へぇ、ごちそうさま…それじゃ、いただきます」と食べ始めた清兵衛さん、その早いことといったらありません。食べるというより、そばが口の中に吸いこまれていくようです。「どうだい、もう10枚食ったよ、あざやかだね、15枚…20枚、えらいもんだね。ほら、25枚、早ぇーなぁ、やぁ、30枚だぜ。えっ、もう半分の35枚食った? ちょっと、食いっぷりが落ちてきたようだな。肩で息して、苦しそうだ。ねぇ、清兵衛さん、もうお止しよ、とてもだめでしょ、身体に毒だからさぁ」「とんでもありません。これでよしたら、大損だ、10両の金をもらえない上に、そば代も払わなくちゃいけないんだ、わたしはやりますよ。おそれいりますが、さっきおことわりした通り、ここで一服させてください」「ああ、中入りですな、どうぞ、どうぞ」「すいません、そっちの部屋へ連れてって、障子を閉めてくれませんか。ビッタリと、中をのぞかないでくださいね」

それからしばらく、ピシャピシャなめるような音がきこえましたが、やがてそれもきこえなくなりました。いくら待っても障子が開かないので、心配になった連中がさわぎだしました。「おかしいなぁ…清兵衛さーん! みんな待ってますよう」「おい、返事がないよ、とても食えないってんで、逃げちまったかな?」ガラッと、障子を開けてみると、清兵衛さんがいません。よくよく見ると、

そばが羽織を着て座っていました。清兵衛さんがなめた草は、人間を溶かす薬だったようで……。


「4月11日にあった主なできごと」

1868年 江戸城開城…徳川15代将軍だった徳川慶喜が水戸へ退去し、江戸城が明治新政府の手にわたりました。前月行われた、旧幕府代表の勝海舟と、新政府代表西郷隆盛の会談により、江戸城の無血開城が実現したものです。

1921年 メートル法の公布…欧米との交流がさかんになり、わが国でこれまで使われてきた尺貫法では不便なことが多く、メートル法の採用を決めました。しかし、なじんできた尺貫法も、業種によっては今も使用されています。

1951年 マッカーサー解任…太平洋戦争で降伏した日本は、連合国軍総司令部(GHQ)に占領され、アメリカのマッカーサー元帥が5年半近く総司令官として君臨してきましたが、「老兵は死なず消え去るのみ」という名文句を残して解任されました。

投稿日:2011年04月11日(月) 06:49

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)