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戦国の英雄・武田信玄

今日4月12日は、戦国時代の甲斐(山梨)を本拠にした武将で、甲斐に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を支配し、越後の上杉謙信と5回にわたる川中島の戦いを行ったことで知られる武田信玄は、三方が原の戦いで徳川家康を破り、その勢いで織田信長をせめる途中、1573年に病死したといわれる日です。

1521年に、守護大名の父信虎の長男に生まれた武田信玄でしたが、1541年、父を駿河に追放して自立しました。父に愛されず、家督が弟の信繁へ行きそうになったのに対し、重臣たちが信玄の将来性を買ったことからのクーデターだったようです。当主となった若い信玄は、今でいう民主的な合議制をとり、「甲州法度次第」という軍略や家臣団の統制、治安の規定などを定めました。そして、外には信濃などへ攻め入りながら、内には治水工事、新田開発、金山の開発など、優れた政治的手腕を見せました。とくに古来から大雨による水害が発生していた笛吹川と釜無川の間にこしらえた堤防は、「信玄堤」として有名です。

また、武田信玄といえば、「風林火山」の軍旗を掲げたことがよく知られています。この言葉は中国の兵学書『孫子』にあるもので、「動くときは風のように速く、静かなときは林のように、攻撃する時は火のように、防御は山のように」といった意味で、信玄の戦い方をよく表していますが、これはあくまで借り物で、「人は城、人は石垣、人は堀、なさけは味方、仇は敵」という言葉のほうが、信玄の生きざまを表しているようです。

甲斐は、四方を山に囲まれた土地で海に隣接していないという弱点を持った国ですが、信玄はそんな甲斐の特徴をよく知っていて、なぜ城を作らないのかと問われて「石垣や堀で囲まれた城よりも、山のほうがもっと丈夫ではないか、敵が攻めてきたらこの山で防げばよい。それより、この国に住んでる一人ひとりが城であり、石垣なのだ」と笑いとばしたといいます。

武田信玄を語る上で外せないのが、越後の上杉謙信です。信玄と謙信は12年間、5度にわたる「川中島の戦い」を行いました。まさしく武田と上杉の総力戦であったといわれます。また、「敵に塩を送る」の故事があるように、謙信も信玄も互いに実力を認め合い、その信念ゆえにぶつかり合ったのでしょう。

武田信玄の名が広まったのは、江戸時代に『甲陽軍鑑』という書物があらわれ、信玄を中心に、数々の重臣や軍師山本勘助ら「武田二十四神将」と呼ばれる家臣たちの逸話、無敵と呼ばれた騎馬軍団を率いた戦術などが紹介され、死後3年間は自分が死んだことを諸国に知らせないために「影武者」をたてさせた話など、江戸をはじめ各地で読み物として親しまれました。この書をもとにした、武田氏を題材とした創作がたくさんあらわれ、現代まで多大な影響力を持つに至っています。

なお、信玄の詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」24巻目「武田信玄」をご覧ください。


「4月12日にあった主なできごと」

1861年 南北戦争勃発…アメリカ合衆国の南北戦争は、北部23州と、南部11州の意見の食い違いからはじまりました。黒人のどれいを使うかどうかが主な対立点で、工業の発達していた北部はどれい制廃止、大きな農場主の多い南部はどれい制維持です。1860年にどれい制廃止を叫んだリンカーンが大統領に当選すると、南部は、北部と分れて「アメリカ連邦」を設立して、4年に及ぶ内戦がはじまりました。

1945年 ルーズベルト死去…アメリカ合衆国の第32代大統領で、アメリカ政治史上でただ一人4度大統領になったルーズベルトが亡くなりました。

1961年 人類初の宇宙飛行…ソ連(現ロシア)の宇宙飛行士ガガーリンが、宇宙船ボストーク1号に乗り1時間48分かけて地球を1周。人類初の宇宙飛行に成功しました。「地球は青かった」という感想の言葉は世界じゅうをかけめぐりました。

投稿日:2011年04月12日(火) 06:33

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)