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蜀山人

「おもしろ古典落語」の12回目は、『蜀山人(しょくさんじん)』という、江戸時代に狂歌の名人といわれた方のお笑いの一席をお楽しみください。五・七・五の「俳句」を、面白おかしく表現した文芸を「川柳」というのに対し、五・七・五・七・七の「和歌」を面白おかしく表現したのが「狂歌」です。1749年の今日3月3日に生まれた蜀山人の本名は、大田直次郎、号を南畝(なんぽ)といい、直参という徳川家のお役人でした。狂歌のほうでは四方赤良(よものあから)、寝惚(ねぼけ)先生などの別号もありました。

たいへんなお酒好きで、酒にまつわる逸話を、たくさん残しております。ある日、狂歌の弟子3、4人がやってきて、「どうも先生はお酒をあがると、乱暴をなさっていけません。どうかこれからは、お酒はつつしんでいただきます」「やぼなことをいうな。わしは酒をやめては生きている甲斐がない。そんな意見はやめだ」「先生がどうしてもお酒をやめないとおっしゃれば、しかたがありません。わたしたちがかわるがわるこちらへまいってきて、酒屋がきたら、どんどん追いかえします」「乱暴な話だな。よしよし、それじゃやめるとしよう」「それでは、たしかにやめるという証書を一札いただきとうぞんじます」「うるさいやつだな、書いてやるよ」

手もとにあった紙に書きながしたのが、「鉄(くろがね)の門よりかたきわが禁酒 ならば手柄にやぶれ朝比奈(あさいな)」という狂歌。朝比奈というのは鎌倉時代の豪傑、朝比奈三郎義秀のことで、その朝比奈さえもやぶれぬほどに、じぶんの禁酒のちかいはかたいと、うたったものでした。

弟子たちが帰ったところへ、入れかわりにやってきましたのが魚屋。「先生、初がつおの生きのいいのが入りました」「せっかくだが、今日はよしだ」「そんなことをいわねえで、買っておくんなせえ。先生だって、先祖代々の江戸っ子でしょう。どてらを質へたたっこんでも、初がつおを食わなけりゃ江戸っ子のはじだというくれえだ。一分二朱にまけておきやすから」「おいおい、値が高いから買わんというのじゃない。酒が飲めないから、かつおを買ったところでつまらぬからだ」「へえ、酒が飲めねえ? また、なんだって酒をやめたんですか」「いましがた弟子たちがきてな、酒を飲んではいかんというから、しかたなくやめたんだ」

「先生、ふざけちゃいけねえ。忘れもしねえ3年前、先生のところへはじめてきたときに、何ていいなすった。きさま、酒は飲めるかというから、あっしゃ下戸で奈良漬を食っても酔いますといったら、そんなやつに屋敷へ出入りされちゃ、先祖にすまねえ。それがいやなら酒を飲め、といったじゃありませんか。くすりを飲むような苦い顔をしいしい飲みおぼえて、やっと一人前の酒飲みになったんで、いわば、先生が本家だ。その本家が出店へことわりもなしにのれんをおろすたぁ合点がいかねえ。こうなりゃあっしも江戸っ子だ。先生が飲まねえうちは帰らねぇ」「まあ待て、そういえばおまえを酒飲みにしたのは、なるほどわたしだ。その師匠が禁酒をしては弟子にすまぬというのはもっともの話、じつはな、わしも飲みたくてうずうずしてたところなんだ。よし、改心して、もとの酒飲みになってやろう」「やあ、さすがは先生だ。よくわかってくれやした」「そうなったらまず酒だ。酒屋へいって、二升ばかりいい酒をとってこい。おまえと二人で、仲なおりに一ぱいやろう」

のんきなもので、魚屋を相手に、初がつおで飲みまして、いい心持ちで寝てしまいました。そんなこととはつゆ知らぬ門人たち、先生のところへきてみると、プンプン酒のにおいをさせて、高いびきで寝ています。「先生、禁酒の歌までお作りになりながら、このありさまは何ごとですか。神宮さまへの誓いをやぶっては、ばちがあたりましょう」「そう怒るな。大神宮さまへの誓いのほうは、そのままではおそれおおいから、短冊だけはとりかえておいた」

門人が神だなの短冊をみると、「わが禁酒 やぶれ衣となりにけり それついでくれ やれさしてやれ」 破れ衣をついだり、さしたりするのと、酒をさしたりついだりするのを、うまくかけた、みごとな狂歌です。「先生はどうしても、お酒はやめられませんか」「うん、狂歌と酒は、やめられんな」「それではどうでしょう、即吟で、もし狂歌ができなかったときは、お酒をやめる、ということではいかがでしょう」「そうだな。よし、そのときにはやめよう」「では、お約束いたしましたよ。これから内田へ、みんなで出かけることになっておりますから、これでごめんこうむります」「まてまて、内田というのは、昌平橋にある居酒屋の内田か」「さようです」「それなら、おれもいく」

これじゃぁ何にもなりません。師弟そろって内田という店で飲みましたが、なにしろ先生は大酒豪のこと、徳利が林のように並びました。ところが、いざ勘定をすることになると、持ち金を全部あわせても足りません。困った弟子が、「先生、勘定が意外にかさんで、金が足りません」「こんど、いっしょに払うといっとけ」「かしこまりました。けれど、さっきのお約束もありますので、この勘定が足らんところで、即吟を一つお願いいたします」「きわどいところへ切りこんできたな」「もしおできにならなかったら、お約束の禁酒ということになりますから」「わかっておる」と、とりよせた紙へ、さらさらと、

「これはしたり うちだと思い酒飲みて 代といわれてなんとしょう平」大酒を飲んだ上での即吟ですから、門弟たちもおどろきました。それでも門弟たちは、なんとかして酒をやめさせたいと思いまして、蜀山人につきあいのある人たちに、難題をお出しください、もし先生が即吟ができませんときは、酒をやめさせていただきたい、と、頼んでまわりました。これはおもしろいと、頼まれた人たちが、いろいろの題をだしますが、どれもすらすらと詠んで、さらに苦にするということもありません。

暮れのある日のこと、蜀山人先生、赤坂から青山へ用たしにいきましたところ、途中でチラチラと雪が降り出してしまいました。困ったことになったと思いながら、赤坂の溜池の知りあいの家の前まできましたとき、そこの内儀(おかみ)が声をかけまして、「まあ先生、この雪の中をどちらへいらっしゃいますので」「青山までまいるのだが」「雨具がなくては、お羽織がだいなしになります。さあ、これをどうぞおめしくださいまし」と、黒羅紗の合羽をだしてくれました。「これはかたじけない」「ついては先生、この合羽で即吟を一首、お願いしとうございますが」 ふところから紙をだして、さらさらと書きましたのは、

「声黄色 合羽は黒し 雪白し ここは赤坂 青山へいく」 みごとに5つの色が、詠みこまれております。これでは、いつまでたっても禁酒はむりなようで…。こうして、さまざまな逸話をのこしました蜀山人、この世に、いとまをつげたのは1823年、ときに75歳といいますから、そのころとしては、たいへん長生きをしたわけであります。

辞世の狂歌として、「ほととぎす 鳴きつるかた身 初がつお 春と夏との入相の鐘」「この世をば どれおいとまとせん(線)香の 煙とともに はい(灰)さようなら」「いままでは 人のことかと思ったに おれが死ぬとは こいつたまらん」この3首が伝えられていますが、このなかの「この世をば…」という1首は、じつは『東海道中膝栗毛』の作者、十返舎一九の辞世ですので、おことわりいたしておきます。

「まちがえも 狂歌(今日か)あすかの辞世では 南畝(なんぼ)なんでも 一九(いく)らなんでも」


「3月3日の行事」

ひな祭り…旧暦ではこの頃に桃がかわいい花を咲かせるために、「桃の節句」ともいわれ、女の子のすこやかな成長を願って「ひな人形」を飾ります。その起源は、むかし中国で重三(3が並ぶ)の節句と呼ばれていたものが、平安時代に日本に伝わってきたものです。貴族のあいだだけで行なわれていましたが、江戸時代になって一般の家庭にも広がるようになりました。


「3月3日にあった主なできごと」

1847年 ベル誕生…電話を発明し、事業家として成功した ベル が生まれました。

1854年 日米和親条約…アメリカの ペリー 提督が、前年6月につづき7隻の軍艦を率いて再び日本へやってきて、横浜で「日米和親条約」(神奈川条約)を幕府と締結しました。これにより、下田と函館の2港へ入ることを認めたため、200年以上続いた鎖国が終わりました。

1860年 桜田門外の変…大雪が降るこの日の朝9時ごろ、江戸城外桜田門近くで、江戸城に向かう大老 井伊直弼 と約60人の行列に、一発の銃声が響きました。これを合図に水戸浪士ら18名が行列に切り込み、かごの中の井伊の首をはねました。浪士たちは井伊大老による安政の大獄で、水戸藩主をはじめ多数の処罰を恨んだ行動でした。

投稿日:2011年03月03日(木) 06:21

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)