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松山鏡

「おもしろ古典落語」の6回目は、『松山鏡(まつやまかがみ』という、心暖まるお笑いの一席をお楽しみください。

(鏡を誰も見たことのない越後の国の松山村に、庄助という正直者で評判の農民がいました。両親が死んでから18年間、墓参りを欠かしたことがないほど孝心のあついことが領主に知れ、ほうびがもらえることになりました。村役人の名主につき添われて役所に出頭した庄助は、領主に、田畑、屋敷、金…はどうかとたずねられました。でも庄助は、自分の親だから当たり前のことをしているだけ、田や畑はとっつぁまからもらったのだけでも手に余る、屋敷だって雨露しのげる今の家で満足、金があれば働く気がなくなると、どれも断ります。困った領主が強いてたずねると、庄助は「それならば、夢でもいいから、死んだとっつぁまに一目会わせてほしい」といいました。これには弱りましたが、今さらだめというわけにはいかず、領主は名主に「庄助の父親は何歳で世を去った」とたずねると、たしか45歳で、しかも顔はせがれにそっくりだといいます。そこで、さっと家来に目くばせして、そのころ京から諸国の領主に贈られた、三種の神器の一つといわれる八咫御鏡(やたのみかがみ)の写しを持ってこさせました)

「こりゃ、庄助、その唐びつの蓋(ふた)をとってみよ」「あっ、あんれまぁ、とっつぁまでねぇか。おめぇさま、こんなところにござらしゃったか。おらでがす、庄助でがす。まぁ、とっつぁま、そんなに泣かねぇでもええだ。とっつぁまが泣くだから、おらも涙が止まんねぇで困るでねぇか…まぁ、達者で何よりだ。それにちょっと若くなっただな…おらぁ、殿様にお願い申して、おめえさまをもらって帰るだから、安心しやっせ…ええ、殿様にお願ぇがあります。このとっつぁまをおらにくだせぇまし」

領主はしばらく考えていましたが、「いや、苦しゅうない。仏の教えにも、善をもって宝となすとある。孝行に越す宝はないはず…これ、庄助、その品は、当家の宝であるが、そのほうの孝心に愛でて遣わす。必ず余人に見せてはならぬぞ。たとえ名主村役人、妻子兄弟たりとも見せてはならぬ。よいか」「お約束もうしあげます。なんせはぁ、ありがたいことで…さぁ、とっつぁま、おまえさまを殿様からもらっただから、家へいっしょに帰るだ…あれっ、とっつぁま喜んで笑ってござっしゃる、うれしかんべ、おらだってうれしいだぁ。殿様、ありがとうごぜぇます。おらのとっつぁまでがす、どんなことがあっても、人には決して見せねぇで大切にしますだ。じゃ、いただいて帰ります」

(こうして庄助は、納屋の古いつづらの中に鏡を入れ、女房にも秘密にして、朝夕、あいさつをしていました。亭主の不審な行動に気づいた女房は、亭主のでかけたあと、つづらをそっとのぞくと…)

「あれっ、たまげたなぁ。やぁ、これだっ、何をおらに隠してると思ったら、こげな女子(おなご)を隠しとくだな…おまえはどこのもんだ。よくもまぁ、うちのとっつぁまをだまくらかして、こんなところへ隠れていやがったな。たぬきみてぇな面しやがって…きまりが悪いもんだから泣いてやがる…おらの方が泣きてぇくらいだ、ずうずうしい女子だ。とっつぁまが帰ってきたら、てめぇを引きずりだしてぶったたくだから、かくごしろ」

(そのうち庄助が帰って夫婦げんかが始まります。「つづらの女子はなんだーっ!」「女子? おらのとっつぁまだーっ!」くんずほぐれつの大げんかになりました。ちょうど表を通りかかった隣村の尼さんが、ふだんは仲がよいのにと、びっくりして仲裁に入りました。両方の事情を聞いた尼さんは、「ようし、おらがその女子に会うべぇ」とつづらをのぞくと……)

「ふふふ、二人ともけんかはするな。中の女は決まり悪がって、頭を丸めてわびている」


「2月3日にあった主なできごと」

1468年 グーテンベルク死去…ドイツの金属加工職人で、活版印刷技術を実用化し、初めて聖書を印刷したことで知られるグーテンベルクが亡くなりました。

1637年 本阿弥光悦死去…豊臣秀吉の時代から江戸初期にかけ、書、陶芸、蒔絵、茶道、作庭、能面彫などさまざまな芸術に秀で、出版までも手がけた本阿弥光悦が亡くなりました。

1717年 江戸名町奉行…8代将軍徳川吉宗に認められ、大岡忠相が江戸町奉行に任命されました。ただし、越前守の名裁判官ぶりはほとんど作り話で、江戸市民に愛され尊敬されていた忠相の人柄が、人情味あふれる庶民の味方として認識され、講談や落語などで広く知られるようになったといわれています。

1809年 メンデルスゾーン誕生…世界3大バイオリン協奏曲(コンチェルト)の一つと賞賛される「バイオリン協奏曲」をはじめ、「真夏の夜の夢」「フィンガルの洞窟」などを作曲したことで知られるメンデルスゾーンが生まれました。

1901年 福沢諭吉死去…「学問のすすめ」「西洋事情」などを著し、慶応義塾を設立するなど、明治期の民間教育を広めることに力をそそぎ、啓蒙思想家の第一人者と評される福沢諭吉が亡くなりました。

投稿日:2011年02月03日(木) 06:16

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)