4月27日のブログに記した「千の風になって」を訳詞した新井満氏によりますと、「どうやらこの詩をかいた作者の思想は、アニミズムに近いようです。21世紀の現代ではきわめて少数派ということになります。少ないながらも、これと同様の世界観や宗教観をもつ人々は今も世界の各地にいます。マオリ、アボリジニ、アイヌ、ケルトなどの人々です。しかし、この詩が英語で書かれたとなると、かなりしぼられていきます。この詩に良く似たフレーズをアメリカの原住民族の伝承の中に見ることができるので、どうやらこの詩は、ネイティブ・アメリカンの誰かが書いたと推理するのがもっとも自然ではないでしょうか」(絵本「千の風になって」理論社刊より)
この考えを推し進めていくと、「お墓はいらない」ということになります。日本では、人が死ぬと墓地に埋葬するのが当たり前のように考えられていますが、もともと墓を作るというならわしは日本古来のものではなく、かつては一部の上流階級を除いて、庶民は遺体を海や山に捨てるのが普通だったようです。今のように庶民が墓を作るようになったのは、江戸幕府の民衆統制制度として檀家制が敷かれてからだというのは、あまり知られていません。
外国では、さまざまな葬法を認めているようで、インドのネール元首相、中国の周恩来元首相、ケ小平元最高実力者、相対性原理の物理学者アインシュタイン、ライシャワー元駐日アメリカ大使らは、遺灰を自然に還し、墓を作っていないということです。日本でも近年になって、夏目漱石、寺山修司、いずみ・たく、沢村貞子、本田宗一郎氏らが散骨をしていますし、「千の風になって」がこんなにも人々に支持されている社会現象をみると、「墓を作らない」という考え方は、急速に普及するものと思われます。
私の亡き妻も、「人の命は、自分のことを思い出してくれる人が生きている間だけのこと、狭い国土に墓をこしらえて生きている人たちの邪魔はしたくない」と、散骨を希望していました。しかし、自宅の庭にそっと撒くというわけにはいかず、調べてみるといろいろ規制があって、いまだに私の部屋の片隅に、ひっそりと妻のお骨が置かれています。