10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第42回目。
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● マンガでは育たない豊かな心
最近は 「子どもとマンガ」 のことがあまり口にされなくなりました。
これは、子どもたちがマンガを読まなくなったからでも、こんなにマンガばかり読んでいていいのかという不安がなくなったからでもありません。
その理由の最も大きなものは 「これだけ子どもの生活に入りこんでしまったものを、批判ばかりしていてもはじまらない。質の高い作品に見られる芸術性や児童文化財としての価値をみとめ、マンガはもう子どもたちとは切り離せないものとして、とらえ直していこう」 という考えから、子どもたちの生活にすっかり受け入れられてしまったからです。
しかし、「こんなにマンガばかり読んでいていいのかしら」 という不安がなくなったのではないということだけは、十分に知っておかなければいけません。なぜなら、マンガを見ることと、物語や童話を読むこととは、やはり本質的に違うからです。
こんなことを言えば、一部のマンガ愛好家の方から文句がとんでくるかもしれません。
かりに、質のよいマンガばかり読んだとします。でも、それから得る感動は、質の悪いマンガから得るものとは違うとしても、目で、すでに描かれている絵を追いながら読みとっていくという読みの方法は、どのマンガでも同じです。
「マンガばかり読んでて」 という不安が去らないのはここです。物語や童話を読むとき、あるいは読み聞かせてもらうとき、子どもは、文学または言葉をとおして、話の主人公の姿や行動や、物語の場面や展開を、自分で想像しながら頭のなかに描いていきます。
絵本には絵の部分が多いとしても、マンガほどこまかくは描かれていません。
たとえば、以前紹介した 「ひさの星」 の絵本にしても、ひさが犬におそわれた赤ん坊を助ける場面や、川に落ちた男の子を助けだす場面などは描かれていません。ひさが濁流にのまれていくところも描かれてはいません。マンガだったら必ず描かれているはずです。
だから、子どもたちは読みながら、ひさの悲しい姿や、その悲しい場面などをいっしょうけんめい想像します。
ところどころにさし絵が入っただけの物語や童話だったら、なおさらです。子どもは、読みとった文字から、自分の頭のなかに絵を描きながら一歩一歩読み進めていく、つまり、文字や言葉のなかの目には、見えない世界を自分の頭のなかで想像しながら理解していく、これこそ、かけがえのないことなのです。
マンガの伝記が多く読まれていますが、この場合、その人の生きた軌跡や業績を知ることについてはマンガでも物語本でも同じかもしれません。しかし、知るに至るまでの思考の方法と深さには絶対的な違いがあり、だから 「マンガでは想像的に深く考える力がつきませんよ」 となるのです。
「マンガのほうがよくわかる」──マンガのすきな人は、よくこう言います。
でも、あまり考えなくてもわかるということは、せっかく人間に与えられた 「考えることの楽しみ」 を、自ら放棄しているのだということを忘れてはなりません。
ほとんどの子が小学校へあがるとマンガにとびつきます。
この時、マンガしか見ない子になるか、童話や物語も読みマンガも見る子になるかは、すべて、就学前にどれほど絵本に親しんだかにかかっています。
小学校にあがってから、「マンガばかり読む子」 「マンガしか読まない子」 になったとしたら、それは子どもが悪いのではありません。多くの場合、お母さんに責任があるのです。
就学前に絵本に親しむ機会を与えられないでいて、学校にあがったら 「どうしてマンガばかり読むのよ」 と叱られたのでは、子どもはたまりません。