10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第45回目。
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● 楽しみながら主人公と比べて自分のことを考える
「はけたよはけたよ」(神沢利子文・西巻茅子絵 偕成社刊)は次のように展開します。
主人公のたつおくんは、ひとりでパンツがはけません。なんどやっても、はけません。はこうと思って片足をあげると、どてん!。たつおくんは、とうとう、「パンツなんか、はかないや」と、言って、はだかのまま外へでていきます。ところが、犬、ねこ、ねずみ、それに牛や馬に 「しっぽのないおしり」 と、わらわれてしまいます。たつおくんは、どんどん逃げて行き、1本足で立っているサギのまねをして、自分も1本足で立とうとすると、またどてん! おしりを泥だらけにして家へ帰ったたつおくんは、お母さんに、おしりを洗ってもらって、またパンツに挑戦。でも、やっぱり、どてん!。
「しりもちついたまま、はけないかなあ」 「あらら、はけちゃった」。
たつおくんは、お母さんがぬってくれた赤いズボンもはいて外へ行きました。するとこんどは、動物たちは、お母さんがぬってくれたズボンをはいたたつおくんを見て 「たつおくんはいいなあ」 とうらやましがります。たつおくんは得意です。
幼児の心をみごとに描いた創作絵本です。会話調で書かれた文は、字をおぼえはじめた子どもにも読みやすく、また、読み聞かせにも最適です。
この作品を読んだ (読み聞かせてもらった) 子ども──そのうち、自分自身パンツをじょうずにはけない子どもは、自分以外にもパンツのはけない子どものいることを知って、安心します。そして、最後に 「ああ、そうか、ねころんだままはけば、はけるんだ」 ということを知って、「よし、ぼくも、やってみよう」 と思います。
また、すでに自分でパンツをはける子は、「ぼくは、はけるんだぞ」 と、自信を持ちます。
つまり自分でも気づかないうちに、作品のなかの登場人物と対比させて自分のことを考えます。実は、これがすばらしいのです。
一つの作品によって自分のことを考える量的なものは少ないものかもしれません。しかし、いくつもの作品にふれながら 「ぼくだったら…」 「わたしだったら…」 と考えるうちに、しぜんに、自分自身の力で自分を見つめるようになる。これこそ、大切なことです。
この 「はけたよはけたよ」 は、しつけの本ではありません。したがって 「たつおくんは、パンツがはけなくて、おかしいね」 「パンツをはいていないと、どうぶつたちに、わらわれるのよ」 「ほら、たつおくんのように、ねころんでやればはけるのよ」 などと言いきかせるのは禁物です。
「片足で立ってパンツはくの、むずかしいのよね」 「どうぶつたちは、たつおくんにしっぽがないので、びっくりしたのよね」 「たつおくん、自分ではけてよかったね」 などと、作品の楽しさを、ほのぼのと語り聞かせることがたいせつです。子どもたちは、この作品が楽しくておもしろいからこそ、自分の心を開くのですから。
たつおくんのお母さんがぬってくれた、赤いズボン。これについても、なにも語りかけなくても、子どもは 「たつおくんのお母さんはやさしいんだな」 「お母さんって、みんなやさしいんだな」 ということを感じとります。具体的に思わなくても、少なくとも、お母さんの“ぬくもり”のようなものだけは感じとります。
この作品を集団の子どもたちに読み聞かせると、読み聞かせが終わったあと、きまって数人の子どもが 「どてん!」 「どてん!」 ところんで、みんなを笑わせます。どうかすると、子どもたちみんなが立ち上がって、1本足になっては 「どてん!」 ところんで、ふざけあいます。でも、これでいいのです。それほど、この作品がおもしろかったのですから。
かりに、この時はおもしろいだけに終わったとしても、いつか、たつおくんのお母さんのことも思いだします。
本のなかの楽しい世界は、ほんとうに、すばらしいものですね。
なお、この絵本は「えほんナビ」のホームページでも紹介されています。
http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=173