10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第6回目。
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● 学力と能力を混同しない
いまの日本を見わたすと、おとなが子どもを評価するときのありかたに、どうも、おかしいと思われるところがあります。それは、子どもの 「学力」と「能力」 を、いっしょくたにしてしまっている傾向のつよいことです。わかりやすくいえば、多くのおとなが、学校の成績のよい子、勉強のできる子を 「能力のすぐれた子」 とし、成績の悪い子、勉強のできない子を 「能力の低い子」 と、きめてかかっているということです。
もちろん、「学力」も「能力」 のひとつです。しかし、それは学校の授業をとおして得た能力、つまり、人間の能力の一部にすぎず、「人間の能力」 そのものではありません。ところが、多くの人が、知識のつめこみにかたよりすぎた学校教育に幻惑されてしまって、「学力」と「能力」 を混同するようになったのでしょう。
「能力」 とは、正確にいえば 「ものごとを、やりとげることのできる力」 「事をなし得る力」 です。したがって学習の結果として得た知識としての学力とはちがいます。「能力」 は、人間にとって、「学力」 などよりも、もっともっとたいせつなもの、もっともっと基本的に備えておかなければいけないもの、であるはずです。
さて、そうだとすれば、「学力」 によって、「能力」 のあるなしをはかるのは、根本的にまちがいだということになるのではないでしょうか。
人間にとって、いちばんたいせつなものは、「ものごとを、自分の考え、自分の力で、やりとげていく能力」 です。この 「能力」 さえあれば、たとえ、いまの 「学力」 がおとっていても、人生の荒波を泳ぎきることができます。しかし、「つめこんだ学力」 「学ばされた学力」 がどんなにすぐれていても、「自分で事をなし得る能力」 に欠けていたら、おそらく苦しい人生にうち勝つことはできないでしょう。
では、その 「能力」 を子どもの時代から身につけてやるには、どうしたらよいのでしょうか。「ものごとをやりとげる」 「事をなす」 ためには 「自分の意志で生きていく力」 が必要だとすれば、「学ばされる」 「やらされる」 ことを除けば、いろいろなことが考えられます。しかし、もっとも効果的だと思われるのは、読書によって、子どもたちに 「人間の生きる意味」 をつかみとらせることではないでしょうか。
● 本の世界こそ生きた能力が育つ
子どもがじっさいに経験できることは限られています。また、とくに、いまの時代は、本来、子どもが自由奔放に経験できるはずのものを、半ば社会が奪いとってしまっています。それに、一般的なことをいえば、おとなの生き方自体が甘くなっているのですから、親から子へ伝えられるものも、浅く薄いものになってしまっています。ところが、本の世界だけは、「心でできる経験」 にも 「教えられるもの」 にも、なに不自由ありません。
文学作品のほか、歴史、伝記、科学などを読むことをとおして、人間が生きることの意味や、人間が人間らしく生きるための愛や、社会のしくみや矛盾などを知ることができます。それらは 「学力」 のなかでは学ぶことのできないものばかりです。しかも、本を読む行ないそのものが、「ものごとに自分から立ち向かって、それをやりとげる力」 を、つちかわせてくれます。
同じ学力でも、学ばされて得た学力と、自分から立ちむかって得た学力とでは、大きなちがいがあることを十分に知っておかなければいけません。ほんとうの生きる意味を知り、ほんとうに生きる希望をもったら、人間は、ほっといても学ぶようになり、それこそ、ほんとうの 「学力」 を身につけるようになります。
読書は、とくに子ども時代の読書は、人間の能力の花を開かせる、最高の肥料だと断言してもよいのではないでしょうか。