10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第8回目。
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● ほんとうの友情とは?
太宰治の小説のなかで、少年少女たちに、もっとも愛読されている作品に 「走れメロス」 という短編があります。
メロスは、牧場ではたらく若者です。ある日メロスは、ちかく結婚する妹の衣裳や祝宴のごちそうを買いに、はるばる王のすむ町へやってきます。すると、町のようすがへんです。町じゅうひっそりして、人びとは暗い顔をしています。道行く人に聞くと王は、人を信じることができなくなり、人の心を疑っては、身内のものやけらいを、つぎつぎ殺してしまうという。
メロスは 「あきれた王だ、生かしてはおけぬ」 と怒り、ひとりで城へのりこみます。しかし、すぐ、とらえられてしまいます。メロスは、死はかくごです。でも、ふと、妹のことが気になります。そこで、処刑まで3日間のゆうよを願いでると、この町にすむ親友のセリヌンティウスを人質において、村へ走ります。そして、妹の婚礼をすませると、3日めの朝、折からの雨のなかを町へ……。
メロスは走ります。橋を失った濁流うずまく川を必死で泳ぎきり、山では、おそってきた山賊をうちたおして、やがて王の手で殺されるために走ります。メロスが3日めにもどってこなければ、かわりに自分が殺されてしまうことはわかっていながら、メロスを信頼して人質になってくれたセリヌンティウスのために、息たえだえになっても走りつづけます。
「走れメロス」 は、このような物語をとおして、正義と友情の美しさをえがいた作品です。
さて、この作品にふれた子どもたちは、とうぜん、メロスとセリヌンティウスとの友情のすばらしさに、心をうたれます。
セリヌンティウスに、私は信頼されている。私は、信頼にむくいなければならぬ。信じられているから走るのだ。走れメロス! ……こんな言葉をとおして、子どもたちは 「世のなかに、こんなにも美しい友情があるのか」 ということを学びます。
刑場にひきだされて、いまにも、メロスの身がわりに処刑されようとするセリヌンティウス。 「殺されるのは私だ」 とさけびながら、さいごの力をふりしぼって刑場にころげこんできたメロス。そして、たったいちどだけ、自分の命が助かるために友の信頼をうらぎることを考えたと告白して、セリヌンティウスに、私をなぐってくれと迫るメロス。また、たったいちどだけ、メロスはもうもどってこないのではと、友の心をうたがったことを告白して、私こそ、なぐってくれと迫るセリヌンティウス。やがて、頬を打ちあい、ひしと抱きあって、うれし泣きに声をあげて泣くふたり……作品の、このさいごの場面にくると、子どもたちは、もう、声をつまらせます。おさえきれない感激につつまれるのです。
● 読書は心にくさびを打ちこむ
この小説を読んでの感想文のなかで、子どもたちは、自分と自分のまわりをふりかえって、つぎのようなことを言っています。
「私にも、セリヌンティウスのような友だちがほしい。でも、そのまえに、私自身が、人に信頼される人間にならなければ」 「いまは、だれもが自分のことばかり考えている。受験戦争が、友情までも、くいつぶしてしまったのだろうか」 「どんな人間にも、人をうらぎったり、うたがったりする心の弱さがある。でも、その弱さに負けないようにしないと、人間が人間でなくなるのだ」
考えてみると、いまの子どもたちに、日常生活のなかで友情や信頼について、これほど考えさせるものが、どれほどあるでしょうか。おそらく、ほとんどの子どもに、そんなものはなく、だからこそ本を読む価値がたたえられるのです。
「友情はたいせつにね」 「友だちをうらきってはいけませんよ」 「人間は人に信頼されるようにならなければ」……こんなことを、親が、口先だけで言ってきかせても、子どもにわかるものではありません。心にくさびを打ちこむような実感がともなわなければダメです。口先だけの100回の言い聞かせよりも、たった1回の読書のほうが、どれほど効果的かしれません。読書は、自分で自分の心をゆさぶり、自分で自分の心にくさびを打ちこむからです。