10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第9回目。
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● 真実のやさしさ、幸せを知る
前回の「走れメロス」に引き続き、岩波書店刊・ 岩波子どもの本の1冊 「はなのすきなうし」(マンロー・リーフ文、ロバート・ローソン絵、光吉夏弥訳 幼児〜小低学年向) を例にあげながら、読書のもつ意味を考えてみましょう。
昭和29年初版で、いまも版をかさねて読みつがれている 「はなのすきなうし」 は、次のような物語です。
むかし、スペインに、フェルジナンドという名の子ウシがいました。ほかの子ウシたちは、あばれまわっているのに、フェルジナンドは、いつも、草の上にすわって、静かに花のにおいをかいでいるのがすきでした。お母さんウシが 「おまえは、さみしくはないのか」 と心配しても 「ぼくは、こうしているのがすきなんだ」 と答えます。だから、お母さんウシも、フェルジナンドのすきなようにさせてやることにします。
やがて、大きくなった子ウシたちは、強い闘牛になるのを夢見るようになりました。でも、フェルジナンドだけは、やはり、静かに花のにおいをかいでいました。しかし、闘牛場へつれていかれることになってしまいます。フェルジナンドが、草にとまっていたハチの上にこしをおろして、そのハチにさされ、あまりの痛さにとびはねているところを、ちょうど強いウシをさがしにきていた闘牛士に見つけられて、猛牛にまちがえられてしまったのです。
ところが、いよいよ闘牛場へひきだされたフェルジナンドは闘おうとしません。闘牛を見にきた女の人たちが頭につけている花を見つけると、すわりこんでしまったのです。がっかりしたのは闘牛士たち。こうしてフェルジナンドは、ふたたび、もとの牧場へ……。
この作品は、作者が、自分のいいたいことをはっきり主張した物語といってよいでしょう。お母さんウシが、わが子を信頼して、わが子の生きかたは、わが子にまかせたこと、そして、フェルジナンドは、自分は自分の生きかたをつらぬき、花を愛するやさしい心を育てて、しあわせに生きていくこと……作者は、こんなことをえがいたのでしょうが、これは物語を読んだほとんどの子どもたちの心に、あたたかくつたわります。
● 作者の人生観を読みとる子どもたち
「フェルジナンドは、花のにおいをかいでいるうちに、心が花のようにやさしくなったのね」 「闘牛士と闘わなくて、だれもけがしたり死んだりしなくてよかったね」 「闘牛なんかになるより、牧場でくらしたほうが、ずっとしあわせよね」 「牧場で、いつまでも、しあわせにくらしたでしようね」 「フェルジナンドの気持をたいせつにしてやったお母さんウシもえらかったのね」……子どもたちは、こんな読後の感想をもらします。美しくやさしい心のすばらしさ、ほんとうのしあわせ、母親の愛情などを、ちゃんと読みとっているのです。
フェルジナンドがハチにさされたり、闘牛場にすわりこんでしまったり……子どもたちは、こんなことに笑い声をたてながら、作者の主張は、しっかりくみとっていく。それも、やさしさ、愛、しあわせと何かを、外から教えられるのではなく、自分で自分の心にきざみながら実感的に理解していく。ここに本の力、本のすばらしさが、あるのではないでしょうか。
「走れメロス」 の太宰治もそうであるように、作者は、たとえ子どもの本であっても、自分の信念や人生観を作品のなかに沈めこんでいます。そして、その信念や人生観は、すぐれた作家になればなるほど偉大なものであり、人が教えを乞うには十分なものです。
この 「はなのすきなうし」 に秘められているような教えを、本の力を借りずに、いったいどれだけの親が、子に伝えることができるでしょうか。こう考えると、本の価値の大きさが、よくわかります。
なお、この作品は、「えほんナビ」のホームページに紹介されている。
http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=1918