10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第10回目。
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● だれもがおぼえる共感と快感
夏目漱石の作品のなかで、子どもにも、おとなにも、もっとも広く愛読されているものに 「坊っちゃん」 があります。
四国の中学校へ赴任した、正直で正義感のつよい竹を割ったような性格の坊っちゃんが、教頭の赤シャツを代表とする悪がしこい教師たちと対立して不正とたたかい、やがて、みずから、この不浄の地をはなれて、やさしい清(奉公人) の待つ東京へ帰るまでをえがいた中編です。
この作品を読みすすめると、だれもが、主人公の坊っちゃんに拍手をおくりたくなります。そして、読後、胸がすっとします。それは、よいことはよい、悪いことは悪いとはっきりいう純粋な坊っちゃんに、あるいは、裏おもてのあるきたない人間に天罰とばかりに制裁をくわえる坊っちゃんに、人間としての共感と快感をおぼえるからです。
赤シャツたちのような、ずるがしこくて、人の心を金と権力でもてあそぼうとする人間は、この世の中にいっぱいいます。ところが、それに腹がたっていても、こんな世の中ではいけないと思ってはいても、それに対して、この坊ちゃんのように立ちむかっていくことは、なかなかできるものではありません。多くの人間は「世の中とは、こんなもんだ」と妥協して通りすぎます。
つまり、この「坊っちゃん」の主人公は、わたしたちがやりたい、やらなければいけない願望を、みごとに果たしてみせてくれる人間であり、だからこそ万人が共感をおぼえて、この作品を愛読するのです。わたしたちは、すこしむてっぽうでも、自分の心に正直に生きる生きかたを、この主人公の坊っちゃんをとおして、作品のなかで体験していくというわけです。
● ちがった生き方の体験
さて、この文学体験……じつはこれが、たいへんかけがえのないことなのです。
よくいわれるように、実生活のなかでの、ひとりの人間の実体験には、だれにだって、かぎりがあります。幼年時代も少年時代も青春時代もたったいちどであり、たとえば、天にものぼりたいようなよろこび、死んでしまいたいような悲しみ、涙があふれてしかたがないような感激、そして、血みどろのたたかいなどを、ひとりの人間がいくたびも体験することは、とてもできません。
しかし、文学作品を読んでの文学体験であれば、だれでも、これを、くりかえしてもつことができます。読者はちがった作品を読むことに作中人物といっしょに生きて、作中人物のよろこび、悲しみ、苦しみ、愛、たたかいとして、心にひびかせていくことができるからです。しかも、人間のあるべき真実のすがたを追求したのが文学ですから、ひとつひとつの文学体験によって、現実の自分の考えや行動が正しいか正しくないかを、見つめなおしていくこともできます。文学作品を多く読む人は、どことなく思慮深いなどといわれるのは、とりもなおさず、文学作品をとおして多くの文学体験をつみ、そのうえで、自分の人生を見つめているからではないでしょうか。
ことばの文化をもたない動物は、とうぜん、この文学体験をもつことはできません。この文学体験をもつことのできるのは、ことばの文化をもつ人間のみです。だったら、人間であるかぎり、この文学体験をもたないことは損です。
子どもが、たとえば、アンデルセンの 「みにくいあひるのこ」 を読んだとします。すると、その子どもが作品に夢中になっているあいだは、みにくいあひるのこは、もう、あひるではありません。あひるは、まぎれもなく自分自身であり、自分自身が 「みにくい、みにくい」 といわれながら、悲しみにたえて生きていく、つまり、文学体験をしていくのです。そして、そんな文学体験のつみかさねが、その子どもの心を、すこしずつ、すこしずつ、豊かにしていくのです。
なお、「坊ちゃん」の原文は「青空文庫」で読むことが出来ます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/752_14964.html