10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第22回目。
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「ガラスのうさぎ」(高木敏子作・金の星社刊) のあらすじは、つぎの通りです。
太平洋戦争末期、東京下町に住む少女・敏子は敗戦色が濃く物資が欠乏した厳しい世の中で、家族とともに一生懸命生きていました。しかし、昭和20年3月10日の東京大空襲で、敏子は母と二人の妹を失ってしまいました。焼け跡から、空襲の猛火で形の変わったガラスのうさぎを掘り出した敏子は、戦争の恐ろしさを目の当たりにします。さらに疎開の途中、駅で米軍機の機銃掃射を受け、父までも亡くしてしまいました。たったひとりになった敏子は、絶望の果てに死を見つめ深夜の海辺をさまよいますが、「私が死んだら、お父さん、お母さん、妹たちのお墓参りは誰がするの。私は生きなければ……」と孤独と悲しみの中で、心を奮い立たせるのでした……。
● 悲しみに耐える主人公の強さ
この作品を読んだ子どもたち(小学校4〜6年生) が、まず、いちように口にしているのは 「戦争のこわさ、むごたらしさ、悲しさを知った」 という、おどろきの言葉です。また 「なんの罪もない無数の人たちを殺し、たくさんの不幸な人たちをつくりだす戦争を、人間は、なぜしたのだろう」 という、戦争への疑問です。そして 「わたしたちは、もう二どと戦争をしてはならない」 という戦争否定への誓いです。
これは、空襲で母を失い、 2人の妹を失い、さらには父までも失った主人公敏子の悲しみが、じんじんと伝わってくるからでしょう。
しかし、そのような、戦争へのおどろき、疑問、そして不戦の誓いなどは、戦争をえがいたもの、戦争告発を主題にしたものであれば、深浅の差はあれ、どのような本からでも感じとることができるものです。もしも、子どもたちが、この 「ガラスのうさぎ」 から感じとるものがそれだけなら、この作品が創作児童文学の名作として読みつがれるゆえんがありません。
この 「ガラスのうさぎ」 が子どもたちの心をゆさぶるものには、もっと深いものがあります。それは、涙をこらえ、悲しみに耐えつづけた主人公敏子の、あまりにも強い、あまりにもけなげな生き方への感動と、その敏子とくらべて 「いまの自分はこれでよいのか」 という、平和に慣れすぎた自分の生き方への問いかけです。
母と妹についで父を失い、父の葬式をひとりで出して生きていく敏子に、子どもたちは 「12歳の少女が、なぜ、こんなにまで強くなることができたのだろう」 「私は生きなければ、がんばらなければと、立ちあがる敏子のたくましさは、どこからでてきたのだろう」 などと、おどろきに似た言葉をもらしています。そして、ある子は 「敏子は、まわりのものが死んでいけばいくほど、命の尊さを知ったのだ、みんなのかわりに生きていかなければと思ったのだ」 と言っています。また、ある子は 「敏子は、たったひとりで、いっしょうけんめいに戦争と戦ったのだ」 と言っています。
● 戦争のむごたらしさと、みずみずしい決意
つまり、この本を読む子どもたちは、自分と同年令、もしくは同年令に近い主人公敏子の、この強い生き方にひきつけられ、敏子がひとりで戦争と戦っていけばいくほど、「生きる」ことをかさねあわせ、戦争について深く考えているのです。また、けなげな敏子の姿とかさねあわせて、戦争のない時代にのんびり生きる自分のあり方を、内省的に考えているのです。
「私は、平和な日本に生まれ育ち平和であることが当然であるような顔をして生活してきた。自分に気に入らないことがあると、すぐ、わがままばかり言ってきた。私には、自分にきびしく生きる心が欠けていたのではないだろうか、平和に慣れきった私の心の底に、戦争以上のむごたらしさがあるのを発見して、私はおどろいてしまった」
ある6年生の少女は、こう語っています。そして、人間に進歩をもたらすためには、その時代に生きる人びとが、自分自身とのたたかいにうちかって生きなければならないのだ、と言い切り、私もこの少女のように自分の目で時代をしっかり見つめて、確かな足あとを残したい、と結んでいます。
実は、たんに戦争の恐しさを知ったというよりも、この6年生の少女のような、みずみずしい決意こそがたいせつなのです。ひとりひとりの、こんな決意こそが、これからのちの戦争をくいとめる、もっとも大きな力になるのですから。
この 「ガラスのうさぎ」 を読んだ子どもたちは、だれもが、主人公の敏子を心の友として生きていくでしょう。そして、苦しみにぶつかっては敏子を思いだし、敏子の姿を思いおこしては、戦争へのにくしみを育てていくでしょう。たった1冊の本でも、その力は計りしれぬほど大きいものです。