10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第4回目。
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● 真実に目をむけて深くものを知る
今回は、ほんとうのことに目を向け、少しでもほんとうのことを知り、ほんとうの疑問をもつために、という観点から問題を考えてみましょう。
一般的に、疑問は、ものごとを知らないからおこると思われています。しかし、これは、80パーセントまちがっています。日常的な疑問の多くは、生活的、便宜的なものであり、真理、真実に目を向けて問いを発した疑問はあまりにも少ないからです。
つまり、ほんとうの疑問は、ものごとを「知る」ことによっておこるものです。知る→疑問がおこる→学んでもっと深く知る→もっと深い疑問がわく→さらに深く知りたくなる……このような疑問、こうして深まり広まった疑問こそが、ほんとうの疑問というものではないでしょうか。
ところが、少しきびしいいい方をすれば、そのような疑問を発するほどのことを 「知っている人」 「知ろうとする人」 が、あまりにも少ないように思われてしかたがありません。これは強く言えば、ものごとの皮相的なことしか知らないから、また、知ろうともしないから、ものごとを考えて判断する知性や、自分の思想や言動をかえりみる内省から発した深い疑問をいだくことができなくなってしまっているのでしょう。
● ほんとうの疑問を持つ心
これは、なぜでしょうか。 端的にいえば、多くの人びとが、マイホーム主義に代表される「物の世界」と、進学・受験戦争に代表される 「形式の世界」 におぼれ毒されて、いつのまにか、ものごとの真実を見つめたり、考えたりする 「心の世界」 を、どこかに置き去りにしてしまっているからではないでしょうか。 物の豊かさのみに心を奪われた中流意識や、形を追いかけるだけの知識偏重主義がおそれられるのは、まさに、そのためです。
「人間は……」 などといえば、あまりにも思いあがったいい方かもしれませんが、それにしても、いまの日本人は、もっと、ほんとうのことを知る心をもつべきでしょう。
ところが、隣を見ても、友だちを見ても、なにかを学びに行っても、その多くが毒されてしまっていますから、まったく手のつけようがありません。少し極端なことをいえば、一般的な日常生活のなかででは、もはや 「ほんとうのことを知る」 すべが、なくなってきています。
さて、だからこそ、おとなも子どもも、本を読むことがたいせつなのです。本は、童話や小説などの文学はもちろんのこと、自然科学の書も、社会科学の書も、歴史の書も、すべて、真理、真実を求めて書かれたものです。世の名作のなかに、真理、真実を追究していないものは、たったの1冊もありません。文学書は人間を、あるいは命あるものを追究しています。科学書は自然界と社会のしくみを追究しています。歴史書は人類の興亡と変遷を追究しています。
したがって、本のページをめくれば、だれだって、いつの世だって、真理、真実を見つめる目にぶつかることができます。そして、表面には表われていない、ものごとの深い部分を知り、それによって、知性的、内省的な疑問をもつことができるようになります。
たとえば、太平洋戦争というのろわしい戦争を書きのこすことのたいせつさが叫ばれ、戦争告発の書がたくさん出版されていますが、戦争を知らない世代の人びとは、それらの本の幾冊かに接しないかぎり、おそらく、戦争の悲惨さも、戦争のむなしさも知ることのないまま、時をすごしてしまうでしょう。つまり、戦争に対する、ほんとうの疑問をもつことのないまま、終わってしまうことでしょう。実は、これこそおそろしいことであり、だから、戦争告発の書の1冊や2冊はだれもが読まなければいけないのです。
読書は、考える人間をつくるといわれます。それは、いいかえれば、真の疑問をもつことのできる人間をつくることでもあります。
「知る」 ため 「疑問をもつ」 ために、いまほど、1冊でも多くの本を読むことのたいせつなときはないでしょう。一人ひとりの子どもにも、幼いうちに、「疑問をもつ心」 を育ててやりたいものです。