10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第3回目。
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● テレビは思考の浅い人間をつくる
前回は、テレビ視聴が受動的な行為であるとすれば、読書は能動的ないとなみであろうということについて考えてみました。そこで今回では、もう一歩すすんで、テレビのもつ宿命的なものとの比較のうえで、読書の大切さを考えてみましょう。
デレビの最大の宿命は、一過性であるということです。映像も音も、視聴者の意思にはかかわりなく流れていきます。ある場面で視聴者が立ちどまって考えようとしても、つねにそれを拒んで、瞬間、瞬間で消えていきます。しかも、再放送を待つか、ビデオテープにたよるかしないかぎり、その番組を、もう二度と求めることはできません。
つまり、くる日もくる日もテレビばかりを楽しんでいると、自分でも気づかないうちに、立ちどまって思考することを忘れていきます。マスコミとの接触を皮相的、せつな的なものに終わらせることに慣れてしまいます。また、疑問を疑問のままにほうむり去ることにもなれ、これらが、思考の浅い人間を形成することにつながっていくのです。
さて、これに対して読書は、まず、なによりも、その本の1ページを相手に、1行を相手に、読者の意思のままに立ちどまって考えることを許してくれます。その1ページ、1行と反復して対話することも許してくれます。また、疑問が生じたときは、その本とのつきあいをいちじ中座して疑問をとき、ふたたび、つきあいをはじめることもできます。さらに、もしも、その本が身近にあれば、その本を生涯の友、生涯の師とすることもできます。つまり、これらが読書本来の価値として高く評価されてきたものであり、だからこそ深い読書が、思考の深い人間の形成に大きく寄与することになるのです。
● 本は立ちどまって深く考えさせる
物理学者・随筆家として名高い寺田寅彦は、名著 「寺田寅彦随筆集」 中で 「読書と今昔」 について語り、そのなかで、つぎのようなことを言っています。
「あるとき、ちっとも興味のなかった書物が、ちがったときに読んでみると、ひじょうに興味をおぼえることも珍しくない。(中略) たいへんおもしろく、読めば読むほど、おもしろ味の深入りする書物もある。(中略) 二、三ページ読んだきりで投げ出したり、また、ページをめくって挿絵を見ただけの本でも、ずっと後になって、意外に役だつ場合もある」。
寺田寅彦がここで言っているのは、1冊をなんどでもくり返して読めることへの、楽しみではないでしょうか。また、その本と、自分の思いどおりに対話できることへの、よろこびではないでしょうか。
ところが、当然のことながらテレビは、中途で投げ出しておいて、のちに、再び見ることなど、また、なんどでも見ることなど、とてもできません。内外の思想家は 「人間は、あるときはとまどい、あるときはつまずきながら反復して考えることがたいせつであり、立ちどまって考えることは人間を深くする」 という意味のことを言っていますが、テレビにそれを要求することはできません。というより、テレビは、むしろ、それを阻害しているのです。