10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第2回目。
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● 自分の意志で行動を起こす
今回は、本を読む行為の能動性について考えてみましょう。
まず対比的に、テレビ視聴のときの身構えを思いだしてみますと、人が映像にむきあっているときは、多分に受動的です。それは第1に、受像機のスイッチをひねりさえすれば、全く労せずに映像が目に、音が耳に、とびこんでくるからです。そして第2には、たとえチャンネルと番組は選べるとしても、基本的には、放送局から一方的に送られてきたものを、受ける形で視聴するよりしかたがないからです。まして、とくに見たい番組もないのに、ただ暇つぶしにテレビにむかっていたとしたら、それはもう受動の極致です。
考えてみれば、テレビ視聴者のこの状況は、動物園にとじこめられている動物たちの状況に、よく似ています。
オリのなかの動物は、ねころんでいようが、あくびをしていようが、自分がオリの中にいさえすれば、人間たちが向こうからやってきてくれます。日曜や祭日にでもなれば、それはもう、うんざりするほどやってきてくれます。しかし、会いたいと思う人間に会うことを求めることはできません。
ときには、人間の顔を見るのにすっかり、あきてしまうこともあるでしょう。しかし、他になにもすることがないから、やっぱり、つい、人の顔をみながら、なんとなくすごしてしまいます。そして、それが習慣化してしまうと、人間を見てもなにも感じなくなるうえに、人間以外のことは、なにも考えようとしないようにもなってしまいます。また、オレは、ほんとうは強い動物だということも、草原をどんな動物よりも早く走れるのだということも忘れてしまいます。
● 能動的に活動する人間を育てる
さて、以上のようなテレビ視聴時の状況に対して、本を読むときはどうでしょうか。
まず第一に、本を読もうとするときは、自分で読みたい本をえらんで、その本を自分のところに持ってこなければなりません。つまり、テレビのように与えられるものを受身で待つのではなく、自分の意志によって、自分で行動をおこさなければなりません。
つぎに、 本はテレビ番組をえらぶように一定の枠のなかからの選択を、余儀なくされるのではなく、無限の量のなかから自由にえらぶことができます。いいかえれば、本をえらぶことひとつにもその人の主体性を十分に生かすことができ、つねに、能動的でありうるわけです。
つまりこれは、動物にたとえるなら、オリから解放されて野生にかえった動物の行為です。自分の意志で自分が行動をおこさないかぎり、人間に会うことも、食べものにありつくこともできません。そのかわり、広大な草原をかけまわれば、さまざまな生きものにであうことができます。また、自由に冒険を楽しむこともできます。
さあ、どうでしょうか。オリの中の動物と、野生の動物とでは、その動物にとって、どちらがすばらしいのでしょうか。それは、いうまでもなく野生の動物のはずです。
動物園の動物たちは、飼育されるうちに、敵と戦うことも、大自然のきびしさに耐え勝っていくことも、もう、忘れてしまっているのかもしれません。
これでは、あまりにもかわいそうでしょう。とすれば、人間がオリの中の動物のようにならないためにも、読書を通じて能動性をしっかり育てていくことが大切でしょう。