W氏に手渡した冊子の内容はどんなものかという問い合わせがあり、原文はかなり長いものなので、そのポイントをここに記載してみることにする。
◇ 昔話の原話をできるかぎり忠実に
「三びきのこぶた」という有名な英国のむかし話がある。ジェイコブズというイギリスの民話収集家が19世紀末に「イギリス民話集」に発表して以来、世界的に流布するようになった。この物語は、二匹のなまけもの兄さんこぶたをオオカミに食べられてしまった弟こぶたが、知恵をはたらかせてオオカミのたくみな誘いから逃れ、逆に、にえ湯の中に落してオオカミ退治をするという痛快なストーリーである。この話を伝えてきた先達の意図は、なまけているとオオカミに食べられてしまうぞとか、力の強い悪者には知恵で対抗せよと教えているにちがいない。そしてこの民話の魅力は、スリルとユーモアにあふれた展開に加え、生きるたくましさと知恵の勝利にあるといってよいだろう。
ところが日本の絵本の多くは、オオカミにこぶたを食べさせるのは残酷だとしてこれを避けたり、なかにはこぶたとオオカミが仲直りしているものまである。これでは子どもたちの欲求を満足させるどころか、もっともセンチメンタルな日本的妥協心をうえつけさせるものではないか。これは、「まあまあそのへんでいいじゃないか」というみせかけの平和主義に子どもたちを追いやるに等しい。オオカミは悪ものだ。悪ものにかかると力の弱い善人は殺されかねない。殺されないために悪ものをやっつけなくてはならない。この論理は子どもにも充分納得のできるものである。
「ポケット絵本」は、昔話の原話の味を最大限に生かすよう努めた。それは昔話の多くが何百年という気の遠くなるような長い時代を生きぬいてきた、いわば民族の遺産でもあるからだ。つまり昔話に価値があるのは、そこに秘められた何かしらの感銘であり、それがその話を伝えてきた人たちの知恵であったからに他ならない。ダイジェストや書きかえの中でそれが薄められてしまったなら、昔話の価値はなくなったも同然といっても過言ではない。
かたきうちとして有名な「サルカニ合戦」でサルとカニが、「カチカチ山」でウサギとタヌキが仲直りしているような、原話を勝手に書きかえ改悪している絵本をみてびっくりした経験をもつ人も少なくないに違いない。
◇ さし絵の価値と小さな判型の意味
幼児にとって、物語を聞くだけでは細かいところの理解が不足する。経験も浅く、想像力も充分発達していないため、物語の世界をイメージ化することはなかなかむずかしい作業である。そこにさし絵が必要になってくるわけで、目に見えない言葉の世界を想像力をフルにはたらかせて見える世界につくりかえる手助けをするわけだ。そして、自分でつくりあげたイメージの世界を登場人物といっしょに歩こうとする。そんな意味からも、幼児に与える絵本はなるべくさし絵の数の多い、色彩の豊かなものが望ましいわけで、「ポケット絵本」は、この点にも力をそそいだ。従来の絵本にくらべ、ページ数、絵の枚数ともに 5割以上も多いはずである。しかもコート紙を使用しているので豊かな色彩が楽しめる。
小型で軽いので、寝る前など、子どもの横に並んで寝ころびながら読んで聞かせることもできるし、旅行やちょっとした外出のおともにすることだって簡単だ。いつも身近において子どもたちの要求のあった時、いつでも開ける状態にあるようにしたいものである。すくなくとも、そういう願いをこめてこのシリーズを制作した。
幼児の時代は、「耳から読書をする時代」ともいわれる。幼児期の読書に必要なことは、本というのは何と楽しいものであるかを感覚的に体験させることではないだろうか。そのためには両親も努力してくりかえし本を読んできかせてほしい。子どもたちは親が自分のために本を読んでくれているという満足感と、絵本が展開する新鮮さ、不思議さにそれこそ胸が熱くなるほどの充実感をおぼえることだろう。そのためにも、同じ本を何度も読むことを要求されてもいやがらないほしい。読み手は大変だが、子どもは一冊の本に興味をもち、そこに喜びを見出すと飽きるまで、それこそ幾度でもその喜びや楽しさを確かめたいのだ。そしてその楽しさを確かめたことに満足なのだから。