1976年8月20日、ついに運命の日を迎えた。手形の決済というのは、同一地域の金融機関が手形交換所に手形や小切手など有価証券を持ち寄り、お互いに提示しあって決済する仕組みになっている。通常、午後3時頃までにこれが行われるため、3時半すぎに銀行に問い合わせると結果を教えてもらえた。この日もその時間に電話してみる。まだ決済されていない。4時、まだだめ。4時半、5時、6時・・・。もう、あきらめざるを得ない。この時ほど、時間が長く感じられたことはなかった。ちょうどこの日は、樫村社長(当時)の新築居宅の引渡し日でもあったが、何という不運だろう。当日はお互いに口を開く気力もなく、憔悴のうちに帰宅した。翌日、J・チェーンからJ総業が不渡手形を出したこと、債権者会議がグループの研修所(群馬・伊勢崎市)で行われるとの知らせがFAXで送られてきた。J総業は不渡りを出したが、J・チェーンは健在というのがせめてもの救いではあったが。
月末が当社の振出手形の決済日に当たり、8月末は1000万円ほどあった。当然、8月20日の1700万円の入金をあてにしていたのが駄目になってしまったわけだから、他で補う以外に方法はない。このままでは連鎖倒産ということになる。「もう、あきらめようよ」と樫村社長はいう。だが、銀行から融資を受けて手にした社長の自宅も取り上げられてしまうことになりかねないし、退職金をつぎこんで協力してくれたなけなしの資金も反故になってしまう。苦労して立ち上げたせっかくの出版社は絶対つぶしたくない、この一念は不思議な力を発揮するものだ。私は樫村社長に「Y社長に直談判して資金を手にするまで帰りません」といいおいて、車を走らせ、J・グループの幹部たちのいる伊勢崎市へむかった。そして、会議室にとじこもるY社長はじめ、幹部たちが部屋を出入りする瞬間をつかまえては当社の窮状を訴えた。