不渡り手形の代償として、当方の弁済要求に対し、はじめのうちは不可能一点張りのJ・チェーンの幹部たちだったが、やがて心が通じだし、一両日のうちに入金の見込みがあるので待機してほしいという。私は、車の中で待っているからと伝えた。1976年8月下旬のこと、残暑が身にこたえたが弱音をはくわけにはいかない。
この待機している時間に、思わぬ縁にめぐまれることになった。茨城県で農業のかたわら加盟店をやっているというF氏との出会いである。J・チェーンの内部事情に詳しい好人物で、当社の童話シリーズはどの地区の誰々がどの程度売っているということを、実によく知っている。特に、栃木県、福島県、宮城県など北関東から南東北地区には、絵本シリーズを中心に営業活動を行って業績をあげている加盟店が何人もいて、その人たちが中心になってあちこちで売り方の勉強会が開かれ、順調に成果をあげているという。私にとってこの情報は実にうれしいものだった。というのも、J総業に絵本を納入してはいるが、現場で売れているかどうかが気がかりだった。絵本が、組織維持の材料としてだけ利用されているとしたら、先行きの希望はないからだ。
「加盟店の人たちにポケット絵本シリーズの評判がいいのは、予約をしてくれた家へ毎月届けにいくため、お客さんと親密になれることです。子どもが一番楽しみにしていますといわれると、この仕事の苦労もいっぺんに吹き飛んでしまいますからね」とF氏はにこやかな笑顔でこう語り、当方の事情もわかってくれて、J・チェーンの幹部たちに助言することも約束してくれた。
翌日の午後2時頃のこと、会議室の隣にある個室へくるように呼ばれ、私はY社長と面談した。あの迫力に満ちた演説をした同一人物とは思えないほど疲れきった様子で、「迷惑をかけて申し訳ない。お申し出の額とはほど遠いが200万円だけ用意できました。これが当方の精いっぱいの誠意だと思ってください」と札束をテーブルの上に置いた。他の人に見られないようにすぐにカバンにしまって、領収書は後日送っておいて下さいとだけいうと、部屋を出て行った。私は、Y社長の表情から、J・チェーンもそう長くは持たないに違いないと直感した。