「おもしろ古典落語」の9回目は、『平林(たいらばやし)』という、ばかばかしいお笑いの一席をお楽しみください。
昔は、学校なんていうものがありませんでしたから、おとなになっても、まともに字を読んだり書いたりできない人がたくさんありました。
ある店のご主人が、小僧の定吉を呼んで、使いをたのみます。「定吉や、本町の『平林(ひらばやし)』さんのところへ行ってきておくれ」「へーい、行ってきます」「これこれ、待ちなさい。用も聞かずに、出かけるやつがあるか?」「どうも、手軽すぎると思いました。で、どういうご用ですか」「この手紙を届けておくれ」「へーい、わかりました。で、どこへとどけるんでしたっけ」「本町の平林(ひらばやし)さんだよ」「そうでした。へへへ…、で、何をしに行くんでしたっけ?」「あきれたやつだ、手紙を届けるんだよ。いいか、おまえは忘れっぽいから、この手紙にあて名が書いてあるから、もし忘れたら、だれかに読んでもらいなさい。いいね、じゃ、早く行っておいで」
「うちの旦那はうるさくていけないよ。でも、使いはいいよ、気が晴れるからな。こうして歩いてると、いやなことも何も忘れられるし…歩いていることも忘れたりして。いや、忘れちゃいけないんだ。あれっ、どこへ行くんだっけかな。そうそう、この手紙を持っていくんだ。誰のとこかな、あっ、そうだ、ここに書いてあるんだったな。しかたない、誰かに聞いてみよう。むこうから人がくるよ。あのう、この手紙のあて名を読んでもらえませんか」
「上の字が『平(たいら)』で、下に『林(はやし)』だから『たいらばやし』だよ」「ありがとうございました。『たいらばやし』ね、でも…、そんな名前だったけかなぁ。そうだ、そこを通るお年寄りに聞いてみよう。お年寄りは、物事をよく知ってるっていうからね、ちょっとおたずねします。この名前は『たいらばやし』でいいんですかね」「ほほう、ちょっと貸してごらん。この上の字は『平(ひら)』、下は『林(りん)』、だから『ひらりん』じゃな」
「どうも、ありがとうございます。ひらりん、ひらりん、ひらひらりんりん、ちょうちょが飛んでるみたいな名前だな、さっきが『たいらばやし』で、こんどは『ひらりん』か、こりゃ、どっちだったかな。『たいらばやしか、ひらりんか』、そうだ、両方いいながら歩こう。『たいらばやしか、ひらりんか』……、どうも、旦那に聞いたのとちょっと違うみたいだな。あそこの大工さんに聞いてみよう。すみません、この字は何て読むんでしょうか」
「いいか、こいつは2つの字だと思うから、いけねぇんだ。ひとつずつ読めばいい。一番上が『一』、次が『八』、それから『十』、その下に材木の『木(もく)』の字がふたつ並んでるだろ、だから『一八十の木木(いちはちじゅうのもくもく)』って読まなくちゃいけねぇ」
「ああ、さようで…『いちはちじゅうのもくもく』。なんか妖怪の子どもみたいな名前だなぁ。しかたない、みんな並べていってみよう。『たいらばやしか ひらりんか いちはちじゅうのもくもく』…こんな名前だったっけかなぁ? あっ、あそこに品のいいおかみさんがいるから聞いてみよう。これは『いちはちじゅうのもくもく』って読んでいいんでしょうか」
「えーっ、そんな読み方なんてあるもんですか。一八十(いちはちじゅう)って、堅く読んではいけないの、『一』はひとつ、『八』はやっつ、『十』はとう、それから木が二つあるから、き、き。『ひとつとやっつでとっきき』と読んでちょうだい」
「わかりました、ありがとうございます。どうも、聞くたびに違うなぁ…、いいや、まとめていってやれ。そのうちに、本人が聞きつけて出てきてくれるだろう。『たいらばやしか ひらりんか いちはちじゅうのもくもく ひとつとやっつでとっきき』……」
そこへ通りかかった男が、きみょうな言葉をぶつぶついってる小僧がいるな、とよく見ると…。「なんだ、定吉じゃないか?」「あぁ、本町の平林(ひらばやし)さん、あっ、ちょっと待ってください。『たいらばやしか ひらりんか いちはちじゅうのもくもく ひとつとやっつでとっきき』……『ひらばやし』っていうのはないね。
ああ、ちょっとおしいですが、今日はお宅に用事はありません」
「2月17日にあった主なできごと」
1856年 ハイネ死去…『歌の本』などの抒情詩をはじめ、多くの旅行体験をもとにした紀行、批評精神に裏づけされた風刺詩や時事詩を発表したドイツの文学者 ハイネ が亡くなりました。
1872年 島崎藤村誕生…処女詩集『若菜集』や『落梅集』で近代詩に新しい道を開き、のちに「破戒」や「夜明け前」などを著した作家 島崎藤村 が生まれました。
1925年 ツタンカーメン発掘…イギリスの考古学者カーターはこの日、3000年も昔の古代エジプトのファラオ・ツタンカーメンの、235kgもの黄金の棺に眠るミイラを発見しました。
1946年 金融緊急措置令…第2次世界大戦後の急激なインフレを抑えるため、金融緊急措置令を施行。これにより、銀行預金は封鎖され、従来の紙幣(旧円)は強制的に銀行へ預金させる一方、旧円の市場流通を停止、新紙幣(新円)との交換を月に世帯主300円、家族一人月100円以内に制限させるなどの金融制限策を実施しました。しかし、この効果は一時的で、1950年ころの物価は戦前の200倍にも達したといわれています。当時国民は、公定価格の30〜40倍ものヤミ価格で生活必需品を買っていました。ヤミでは買わないとの信念を貫いた東京地裁の判事が、栄養失調で死亡したニュースも伝えられています。