10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第31回目。
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「蜘蛛の糸」(芥川龍之介作)のあらすじは次の通りです。
ある日、極楽の蓮の池から地獄をのぞいたお釈迦さまは、大どろぼうの大悪人だが、1度だけ小さなくもの命を助けたことのある、カン陀多(かんだた)という男を地獄から救ってやろうと、地獄へ1本のくもの糸をたらしました。さて、地獄の底でこれをみつけてよろこんだカン陀多は、細いくもの糸をのぼっていきました。ところが、ずいぶんのぼってふと下を見ると、あとからたくさんの罪人たちがのぼってきています。
自分1人でも切れそうなこの糸が、どうしてあれだけの重みにたえられよう……こう思ったカン陀多は、叫びました。「こら罪人ども、このくもの糸はおれのものだぞ」。するとそのとたん、くもの糸はぷっつり切れて、カン陀多はまっさかさまに、また地獄へ……。ごらんになっていたお釈迦さまは、悲しげに、水の面から目をお上げになりました。
● 人間の心の弱さとエゴイズムの悲しさ
前回の『一房の葡萄』(有島武郎) とならんでこの『蜘蛛の糸』も、いまなお読みつがれている、古典童話の名作のひとつです。『一房の葡萄』は人間のやさしさをえがいたものでしたが、『蜘蛛の糸』は人間のエゴイズムの悲しさを、読む側に語りかけています。
さて、この作品を読んだ子どもたち(小学4〜6年生) の感想文に一様にみられるのは、まず、カン陀多への批判です。
「せっかく、おしゃかさまが、じごくから助けてあげようとしたのに、自分だけ助かろうとしたから、また、ばちがあたったんだ」 「下からのぼってくる罪人たちといっしょに、くもの糸をのぼっていけばよかったのに。そうすれば、おしゃかさまは、もっとよろこんで、みんなを助けてくれたのに」
「かんだたは、くるしいじごくから自分が助かりたいなら、ほかの罪人だって助かりたいということが、どうしてわからなかったのだろう」 「あの、くもの糸は、にんげんの重さで切れたではない。自分だけ助かればいいという、かんだたの悲しい心が切ってしまったのだ」
子どもたちは、芥川龍之介がえがこうとした人間の利己心の悲しさを、きちんと読みとっています。そして「にんげんは、自分のことだけを考えてはいけない」「自分のしあわせといっしょに、人のしあわせも考えなければならない」「自分が苦しいなら、人の苦しみも理解してゆくべきだ」ということを、自分自身に言い聞かせています。くもの糸を切った釈迦のいましめが、そのまま教訓となって、子どもたちの心にひびいていったのです。
まだ3年生とはいえ、もう一歩ふみこんで考えている子もいます。
「どんな、にんげんにだって、じぶんだけは助かりたいという気持ちがあるのではないだろうか」 「かんだたのような気をおこすのが、にんげんの弱さではないだろうか」 「ひょっとすると、あれが、ふつうのにんげんの、ほんとうのすがたでは、ないだろうか」
ある5年生の子は 「芥川龍之介が言いたかったのは、ほんとうは、人間の弱さではなかっただろうか」 とさえ言っています。そして 「もしも、みんなと乗っている船が沈没しそうになって、せまい逃げぐちにみんながさっとうしたとき、ぼくは、どうするだろうか。まず自分が逃げだそうとするのではないだろうか」 と、自分に問いかけています。
人間は、自分のことだけを考えるのではいけない……このことは、どんな子でも言い聞かされています。しかし、船の遭難のときを考えた子のように、いざとなったらということまでは、ほとんど考えないものです。つまり、言い聞かされたことは、こうしてはいけない、という教えにとどまっています。
ところが『蜘蛛の糸』を読んだ子どもは、自分がカン陀多になったつもりで考え、物語の中でひとつの経験をしながら、利己心の悲しさや人間の心の弱さを実感しています。これは、読書による代理経験といわれるものであり、また、本を読むことのすばらしさは、この代理経験を重ねてゆけることにあります。
なお、この『蜘蛛の糸』を読んだあと『鼻』『杜子春』などへと読み進め、やがてもっと深く芥川文学へ迫るようになった子どもも少なくありません。大作家の作品に、まずふれてみること、それがたいせつと言えるでしょう。
なお、「蜘蛛の糸」の原文は、「青空文庫」で読むことができます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html