1976年11月1日J・チェーンは手形の不渡りを出して倒産してしまった。J総業の倒産後、交渉によりJ・チェーンが振出元になって書き換えられ、毎月100万ずつ25ヶ月分(25枚・総額2500万円分)の手形を入手していた。これらの肩代わりしてもらった手形も、1度も決済されることなく、紙きれ同然となってしまったのである。予想していたとはいえ、1年ほど前、京都国際会館を借り切って、1000名もの加盟店の人たちが集い、Y社長の気力あふれる演説に、元気よく呼応していたあの磐石にみえた組織が消滅してしまったことが、大きなショックではあった。
しかし、安閑としてはいられない。倒産を知った債権者が、損害を出来るだけ少なくするために、倉庫へ押しかけ、在庫品をわれ先に持ち出すことが良くあると聞いたからだ。私はすぐに、J・チェーングループのある伊勢崎市へ車を走らせた。すでに、J・チェーンの倒産を聞きつけた債権者や加盟店だった人たちが、大勢押しかけてきていた。そして、いくつかある倉庫のひとつでは、ガードマンらしき人を押しのけて、中にある在庫を引き上げている人たちがいた。怒号、罵声をあげながらの小競り合いがしばらく続いていたが、やがておさまり、在庫を収納していたと思われる倉庫はすべてしっかりロックされたことを見届けた。当社にとって、J・チェーンに納品していた「ポケット絵本」が盗まれたりして市場に流れ、バッタ売りでもされることを一番恐れたからだ。そうなっては、販売組織を作るどころの話ではなくなってしまう。
もうひとつ頭を悩ます問題が発生していた。最大の取引先が倒産したことで、銀行の対応が一段と厳しくなったことに加え、印刷業者や製本業者など下請けとして協力してくれた会社が、軒並み支払い条件の変更を求めてきた。これまで月末締、翌月末振出90日後決済の手形だったのが、半手半金(現金と手形が2分の1)、中には前金(発注時に現金支払)を要求するのである。まさに、泣き面に蜂状態に陥ってしまった。