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「洞爺丸沈没事故」 とリーパー

今日11月12日は、日本キリスト教青年会(YMCA)に所属し、洞爺丸沈没事故に遭遇し、パニックに陥った乗客を励まして救命具を着用するように指示するものの命を絶ったアメリカの宣教師リーパーが、1920年に生まれた日です。

イリノイ州カントンに農場経営者の子として生まれたディーン・リーパーは、キリスト教信仰を持つ敬虔な両親のもとで育ち、父の跡をつごうと1938年、イリノイ大学農学部に入学すると、YMCA (キリスト教の考えに基づき、教育・スポーツ・福祉・文化などの分野の事業を展開する公益団体) に入会しました。1941年に同大学のYMCA会長に選ばれ、アジアから帰国した宣教師に感化を受け、家業を継ぐより宣教師として生きようと志を変えました。

卒業後は全米学生伝道団の巡回主事に任じられ、全米を巡回します。1943年にシアトルで、日本人が太平洋戦争のさなか国策に反して反戦運動を行う姿に感銘し、日本に興味を持ちました。1944年、アメリカ海軍に招集されると、日本語教育機関に志願して、コロラド大学で日本語を学びました。

戦後は、日本に進駐軍の語学兵として派遣される手段があったもののこれを断り、一個人として妻子を伴って来日しました。防空壕に住む人々を目の当たりにし、強い衝撃を受けるものの、日本YMCAの再建に努めながら、日本人の中にとけこむ努力をしました。銭湯に顔を出しては日本人と背中を流しあったり、プロ級の手品を見せて人々を楽しませ、たちまち人気者になっていきました。

3年後に家族とともに一時アメリカへ帰国し、エール大学神学部とカレット神学校を卒業して牧師の資格をとると、1948年に北米カナダYMCA同盟から指名されて、日本YMCA学生部名誉主事として再来日しました。さっそく、家族を東京に残し、北海道と東北のYMCAを忙しく巡回し、キリスト教の信仰や思想を熱く語り続けました。

そして、運命の日がやってきました。1954年9月26日、鹿児島に上陸した台風15号は、時速100kmという高速で、日本海から北海道西岸を一日でぬけていきました。この台風で、青函連絡船洞爺丸は函館湾で沈没。乗員乗客を合わせて1155人の犠牲者をだす大惨事となりました。これはあのタイタニック号(1912年、死者1513人)に次ぐ史上2番目の海難事故でした。この時、リーパーが洞爺丸に乗りあわせていたのです。リーパーはうろたえる乗客にやさしく語りかけ、自慢の手品を披露、あざやかな手さばきに船室の空気はやわらぎました。いよいよ沈没が避けられなくなったとき、女性や子どもたちに救命具を着せてやり、最後まで励ましのことばをかけながら死んでいったのでした。

のちに作家三浦綾子は、リーパーをモデルに、小説『氷点』の中で、自らの命を他人のためにささげた宣教師として描いています。


「11月12日にあった主なできごと」

1840年 ロダン誕生…19世紀を代表する彫刻家で『考える人』『カレーの市民』『バルザック』などの名作を数多く残したロダンが生まれました。

1866年 孫文誕生…「三民主義」を唱え、国民党を組織して中国革命を主導、「国父」と呼ばれている孫文が生まれました。
 
1871年 日本初の女子留学生… 岩倉具視を団長に、伊藤博文、木戸孝允ら欧米巡遊視察団48名がこの日横浜港を出港。そこに59名の留学生も同乗、その中に後に「女子英学塾」(現・津田塾大)を設立する6歳の津田梅子ら5名の女子留学生の姿がありました。
 
1898年 中浜万次郎死去…漂流した漁船にのっていてアメリカ船にすくわれ、アメリカで教育を受け、アメリカ文化の紹介者として活躍した中浜万次郎(ジョン万次郎)が亡くなりました。
 
1948年 極東軍事裁判判決…太平洋戦争敗戦後、GHQ(連合軍総司令部)による占領政治が開始されると、満州事変以来の政府と軍部指導者の戦争責任をさばく極東軍事裁判(東京裁判)が1946年から31か月にわたっておこなわれました。この日に最終判決が下され、東条英機ら7名に死刑、被告25名全員が有罪とされました。
投稿日:2014年11月12日(水) 05:43

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)