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『洞窟の頼朝』 の前田青邨

今日10月27日は、梶田半古に学び、今村紫紅、安田靫彦、小林古径らと腕を競いあいながら大成した日本画家の前田青邨(まえだ せいそん)が、1977年に亡くなった日です。

1885年、岐阜県中津川市に食料品店の子に生まれた前田青邨(本名・廉造)は、1898年母の死をきっかけに下宿を営む叔父を頼って上京し、京華中学に入学するものの身体をこわして帰郷しました。1901年、父の反対を押し切り画家をめざして再上京すると、叔父のつてで尾崎紅葉を紹介され、当時紅葉が新聞連載していた『金色夜叉』の挿絵を担当していた梶田半古に入門することになりました。兄弟子だった小林古径や同門となった奥村土牛らと歴史画を模写したり、有職故実を学びながら実力をつけると、1902年日本絵画協会と日本美術院の連合展に『金子家忠』を初出品し、三等褒状を受けたことで、半古から青邨の号をもらい受けたのでした。

わずか17歳で幸先よいスタートを切った青邨は、翌1903年にも内国勧業博覧会でも褒状を受けると、1年間国学院大の聴講生となって古典文学を学んだことは、のちの青邨の知識や教養の基になりました。そして1907年、 青年画家グループ「紅児会」に入り今村紫紅、安田靫彦、古径らの俊英とともに新しい歴史画の研究を推し進め、絵巻物になっている『御輿振り』(東京国立博物館蔵)は、青邨20代の代表作といわれています。

1914年 再興された日本美術院に参加し、第1回院展に『竹取物語』と『湯治場』を出品すると、たちまち評判となって会期中に古径とともに同人に推挙され、このころから個性的な感覚と、俯瞰図など画面構成の面白さが特に注目されるようになり、シリーズ『京都名所八題』など、院展の中心メンバーとなっていきます。

1922年からは、古径とともに1年間渡欧して見聞を広げたことがきっかけとなって、帰国後は相次いで秀作を発表。『羅馬使節』(1927年)や、青邨芸術のピークといわれる代表的大作『洞窟の頼朝』(1929年・大倉文化財団蔵)は、伊豆に挙兵した頼朝が、石橋山の戦いに敗れ、わずかな手勢で洞窟に逃れ、息を殺して外をうかがうシーンを描いた作品で、武者絵と鎧兜の精密な描写に優れ、第1回朝日文化賞を受賞しています。 (2010年に重要文化財に指定)

終戦後も、青邨の創作意欲は衰えず、1951年東京芸術大日本画科主任教授に就任して平山郁夫らを指導するかたわら、大和絵の伝統を軸に安井曽太郎をモデルにした『Y氏像』らの肖像、多くの『紅白梅図』や、歴史画にも新しい描き方に挑戦するなど作域をさらに広げていきました。1955年には文化勲章受賞。生誕地の中津川市には、青邨から寄贈された本画や下図などを展示する青邨記念館があります。


「10月27日にあった主なできごと」

1728年 クック誕生…キャプテン・クックのよび名で知られ、世界の海を縦横に走り回って、オーストラリアやニュージーランドの探検・調査などさまざまな業績をのこした18世紀の海洋探検家のクックが生まれました。

1859年 吉田松陰死去…「松下村塾」を開き、高杉晋作、木戸孝允ら幕末に活躍した多くの志士を育て、「安政の大獄」で逮捕された長州藩(山口県)の学者吉田松陰が処刑されました。
投稿日:2014年10月27日(月) 05:55

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)