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李朝を亡国に導いた閔妃

今日10月8日は、李氏朝鮮の第26代王・高宗の皇后で、義父大院君との20年以上にわたる権力闘争の末、乙未(いつび)事変で暗殺された閔妃(びんひ/ミンビ)が、1895年に亡くなった日です。

1851年、閔致禄の子として京畿道に生まれた閔妃は、15歳の時に高宗の実父で摂政・大院君の夫人の推挙で、同い歳の高宗の妃として王宮に入りました。しかし、高宗は政治と妃に全く関心を持たず、多数の宮女や妓生たちを相手に放蕩三昧をする人物でした。高宗が愛人とのあいだに長子をもうけると、祖父の大院君は世継ぎにしようとしました。しかし、閔妃が自身の子純宗を出産すると、宗主国である清に賄賂を贈り、嫡子として承認してもらうことに成功しました。

当時は、大院君が政治の実権を握っており、外にたいしては鎖国攘夷を守り、日本の開国要求を拒否し続け、内には王朝権力拡大のために王宮造営の大工事を行い、政治を批判する儒者たちに弾圧を加えていました。閔妃一派は1873年、高宗がすでに20歳を越え、親政の年齢に達したとして大院君を権力から追い出し、実権を握ってしまいました。そして大院君を隠居させ、大院君系列の人々を追放・流刑・処刑にしました。その後、1875年に日本と朝鮮の間で起こった武力衝突「江華島事件」が起こり、翌年に日朝修好条規が結ばれ、領事裁判権や関税自主権のない不平等条約ながら、李朝と日本の間に正式な国交が結ばれました。

閔妃派と大院君の抗争は依然続き、一時大院君が政権を奪取しましたが、閔妃は清に援軍を求め、再び大院君は天津に幽閉されました。そのような状況を見た開化派の金玉均や朴泳孝らは、閔妃を追放しない限り、朝鮮の近代化は実現しないとして1884年には、大院君を奉じてクーデターを決行。しかし、再々度閔妃は袁世凱率いる清国軍に援軍を求め、わずか3日で政権を取り返しました。1885年になると閔妃は、ロシアの南下政策を警戒しだしたイギリスなどを牽制するために親ロシア政策もとりはじめ、1894年に農民内乱(東学党の乱)が起きると清軍と日本軍の介入を招き、日清戦争の原因と戦場になりました。

日清戦争後は、日本側の推す大院君派の勢力が強くなったことで閔妃の勢力は衰退していき、閔妃は親ロシア政策をさらに推し進め、ロシア軍の助力を得て権力奪還に成功しました。そんな動きは、閔妃に不満を持つ大院君や開化派勢力、日本などの諸外国から警戒され、1895年10月8日の早朝、日本軍守備隊、領事館警察官、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使らが侵入する事件が発生、その混乱の中で殺害されたのでした(乙未事変)。


「10月8日にあった主なできごと」

1856年 アロー号事件…中国の広州湾外で、清の役人がイギリス船アロー号を立ち入り検査し、船員12名を海賊容疑で逮捕しました。イギリスは清に厳重に抗議、宣教師を殺害されたとするフランスと連合して、1857年から1860年にかけて、清と英仏連合軍とが戦う「アロー戦争」となりました。最終的に北京条約で終結、清の半植民地化が決定的なものとなりました。
投稿日:2014年10月08日(水) 05:41

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)