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「洋式医学」 を伝えたポンぺ

今日10月7日は、オランダ人医学教師として幕末の長崎に来日し、日本初の近代的洋式病院と医学校をこしらえ、近代西洋医学の定着に大きな役割を果たしたポンぺが、1908年に亡くなった日です。

1829年、ベルギーのブルージェで生まれたヨハネス・ポンぺは、1849年にオランダにあるユトレヒトの陸軍軍医学校で医学を学び、卒業後オランダ海軍の軍医としてオランダ領東インドで勤務ののち、長崎海軍伝習所の教授としてオランダ医学を系統だてて教えることになり、咸臨丸で1857年に来日しました。

ポンぺは、長崎奉行所西役所で、医学の土台となる基礎科学から教え始め、幕府医官でのちに初代陸軍軍医総監となる松本良順ら12名に初講義を行いました。そして、物理学、化学、解剖学、生理学、病理学といった医学関連科目をすべて教えますが、これはポンペがユトレヒト医学校で学んだ最新医学そのままで、内容は臨床的で実学的なものでした。やがて、学生数の増加にともない、大村町の高島秋帆邸に教室を移すと、1859年には人体解剖実習を行い、このときにはシーボルトの娘・楠本イネら46名の学生が参加したといわれています。

コレラ予防、性病予防、種痘にも従事したほか、ポンぺは、本格的な医学教育のためには、病院を建設することを幕府に訴え、1861年に長崎養生所と長崎医学所が完成しました。これは、124のベッドを持った日本初の近代的洋式病院と、医学校であり、長崎大学医学部の原点でもありました。松本良順をはじめ、司馬凌海、岩佐純、長与専斎、佐藤尚中、関寛斎、佐々木東洋、入沢恭平らが学び、近代西洋医学の定着に大きな役割を果たしました。また、ポンペの診療は相手の身分や貧富にこだわらないきわめて民主的なもので、日本において民主主義的な制度が初めて採り入れられたのは、この医療の場であったともいわれています。

1862年、長崎を去ってからのポンぺは、オランダのハーグで開業するかたわら、『ポンぺ日本滞在見聞記』を著して幕末の日本を紹介しました。その後赤十字委員となり、ペテルブルクの日本大使館に勤務し、ロシア日本公使だった榎本武揚の顧問となって、日本の赤十字加盟に尽力しました。のちに、森鴎外がヨーロッパに留学中に赤十字の国際会議でポンペに出会い、日本時代の感想を聞いた時、「ほとんど夢のようであった」と語ったといわれています。


「10月7日にあった主なできごと」

1674年 狩野探幽死去…江戸幕府代々の御用絵師として、日本画を代表する狩野派の栄える基礎を築いた狩野探幽が亡くなりました。

1949年 ドイツ民主共和国(東ドイツ)成立…西ドイツ成立後1か月もたたないこの日、東ドイツが誕生。ソ連の助けを借りて、社会主義国家として第1歩をふみだしました。なお、41年後の1990年10月3日に両ドイツは統一を回復。アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の戦勝4か国は、ドイツに対してもっていたさまざまな権利を放棄して、統一ドイツは完全な主権をもった国家として国際社会に復帰しました。
投稿日:2014年10月07日(火) 05:26

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)