児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ Top >  今日はこんな日 >  日本演劇界をリードした水谷八重子

日本演劇界をリードした水谷八重子

今日10月1日は、大正時代から晩年までトップ女優として演じ続け、杉村春子、山田五十鈴とともに3大女優と讃えられた水谷八重子(みずたに やえこ)初代が、1979年に亡くなった日です。

1905年、東京神楽坂に時計商の次女として生まれた水谷(本名・松野)八重子は、生まれてまもなく、姉が作家の水谷竹紫(ちくし)と結婚し、5歳のときに父が亡くなったため、八重子は母とともに姉と義兄のもとに身を寄せました。竹紫が島村抱月らと、劇団芸術座の設立に中心的な役割を果たしたこともあって、1914年8歳で子役で出演しました。その演技は小山内薫に認められ、1916年には芸術座帝劇公演『アンナ・カレーニナ』で、松井須磨子演じるアンナの息子役で正式な初舞台をふみました。

1918年、雙葉高等女学校に入学しますが、その後も芸術座解散後の1920年、新協劇団公演『青い鳥』で兄のチルチル役を演じたことで、本格的に女優の道を歩む決意をします。同舞台で共演した友田恭助らと劇団「わかもの座」を作って、野外劇などを上演し、1921年には『寒椿』で映画デビューをしましたが、雙葉高女から校則違反の圧力がかかり、匿名で出演したことも話題になりました。卒業後は「研究座」に入り、新劇、大衆劇の双方から引っ張りだこになりました。1923年御国座での『大尉の娘』は八重子の当たり役となり、この作品で演技に目覚めたと後日語っています。

1924年には水谷竹紫が第2次芸術座を創立すると、その旗揚げ公演『人形の家』では主人公ノラを見事に演じて、その中心メンバーとなります。1928年には松竹と契約して新派にも加わり、花柳正太郎と名コンビを組んで看板女優となり、井上正夫とともに本郷座で公演するなど、新派劇は全盛期を迎えました。1937年に、14代目守田勘彌と結婚し良重(のちの2代目水谷八重子)をもうけますが、戦争がはじまると自宅を空襲で焼かれ、第2次芸術座も解散せざるをえませんでした。

戦後は1949年、花柳章太郎らの「劇団新派」の結成に参加し、新派演目を継承しながら、新劇の演出家菅原卓により、新派劇と新劇の融合をめざす舞台で注目されました。1974年には、「舞台生活60年」を記念して自らの当たり役の中から代表作「八重子十種」を選定しました。『大尉の娘』を筆頭に、『風流深川唄』『瀧の白糸』『花の生涯』『明日の幸福』『十三夜』『皇女和の宮』『鹿鳴館』『明治の雪』『寺田屋お登勢』──、これらはそのまま、日本演劇史に残る秀作ぞろいといえそうです。


「10月1日にあった主なできごと」

1847年 中江兆民誕生…「東洋のルソー」とよばれ、自由民権思想を広めた明治期の思想家の中江兆民が生まれました。

1949年 中華人民共和国成立…第2次世界大戦中、共産党の毛沢東は国民党の蒋介石と力を合わせて、日本との戦争に勝ちました。ところが蒋介石はアメリカと組んで共産党をしりぞけようとしたため、3年にわたる内戦がはじまりました。その結果、蒋介石は台湾に逃れ、この日毛沢東を主席とする新しい中国(中華人民共和国)が生まれました。中国の人たちはこの日を「国慶節」(建国記念日)と決めて、毎年にぎやかなお祭りを行ないます。

1964年 東海道新幹線開業…10日にはじまる「東京オリンピック」に間に合わせるために、この日開業。それまで東京─大阪間は特急で6時間50分かかっていた時間を3時間も短縮しました。
投稿日:2014年10月01日(水) 05:55

 <  前の記事 「怒れる若者の代弁者」 ジミー  |  トップページ  |  次の記事 「俳諧の祖」 山崎宗鑑  > 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://mt.izumishobo.co.jp/mt-tb.cgi/3426

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

         

2015年01月

        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

月別アーカイブ

 

Mobile

児童英語・図書出版社 社長のこだわりプログmobile ver. http://mt.izumishobo.co.jp/plugins/Mobile/mtm.cgi?b=6

プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)