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「俳諧の祖」 山崎宗鑑

今日10月2日は、室町時代末期の連歌師・俳諧作家で、ユニークな句を作ったことで知られる伝説的人物の山崎宗鑑(やまざき そうかん)が、1554年に亡くなったとされる日です。

1465年、近江国(今の草津市)に生まれた山崎宗鑑(本名・支那範重)は、幼少時から室町幕府9代将軍足利義尚(よしひさ)の小姓として仕え、一休禅師とも親しくしていたと伝えられています。義尚が1489年に亡くなると、出家して淀川河畔の山城国(京都)山崎に庵を結んだことから、山崎宗鑑と呼ばれるようになりました。当時山崎は、菜種油の産地のため油の取引が盛んで、宗鑑は竹で油筒を作り生活の資にしながら、連歌(5・7・7の上句と7・7の下句を交互に読み合う文芸)の達人として知られていました。こんなエピソードが残されています。

ある人に「切りたくもあり 切りたくもなし」という下の句に上の句を付けてみよといわれ、「ぬすびとを 捕へて見ればわが子なり 切りたくもあり 切りたくもなし」と即座に読んで、かっさいを浴びたという話。また、ある公家が、古歌の上の句につけて、どんな歌にでも、なるほどと思わせる便利な下の句があるといわれました。それは「といひし昔の しのばるるかな」いうのを聞いて宗鑑は、それは、衣食住の足りているあなた方のもの。われら卑賤の者は「それにつけても金の欲しさよ」となりますな、と笑い飛ばしたといった話が、長く語り伝えられています。

1523年ごろに山崎の地を去り、1528年に讃岐国(今の香川県観音寺)の興昌寺に「一夜庵」を結び、そこで生涯を終えました。「一夜庵」の名は、次のような額が入口に掲げられたからでした。「1.上の客人立かへり 1.中の客人日がえり 1.とまり客人下の下」として、宿泊を断ったからとされ、建物は修復を重ねながら現地に残されています。

こっけいや機智を誰よりも好み、天性ともいえる洒落気を持つ宗鑑には、貴族的で伝統を重んじる連歌には今一つ気に入らないところがあったようで、「一夜庵」に移ってからは、より自由な俳諧の世界へと足を踏み入れました。俳諧選集「犬筑波集」の選者といわれ、荒木田守武とともに、俳諧の祖とされています。でも、神官だった荒木田が、正統派の俳諧を多く詠んだのに対し、「月に柄をさしたらば よき団扇かな」「にがにがし いつまで嵐ふきの塔」など、ひと癖あるような句が多く、「としくれて 人ものくれぬ こよひかな」の句を詠んだときは、周囲の人があわれがって、正月道具を持ち寄ったと『寒川入道筆記』に記されています。

一夜庵で「腫れ物(よう)」を患い、死の直前に、「宗鑑は いづくへと人の問うならば ちとようありて あの世へといへ」と詠みました。江戸時代初期の談林俳諧に大きな影響を与えた宗鑑にふさわしい、辞世の句といえそうです。


「10月2日にあった主なできごと」

755年 吉備真備死去…奈良時代に輩出した最大の知識人・政治家といわれる吉備真備が亡くなりました。

1943年 学徒出陣公布…太平洋戦争での兵力不足を補うため、また戦局悪化により下級将校の不足も顕著になったため、26歳までは徴兵猶予されていた20歳以上の学生を、在学途中で徴兵し出征させると公布しました。そして、10月と11月に徴兵検査を実施して合格者を12月に入隊させることになりました。

1961年 柏鵬時代の始まり…大相撲の柏戸・大鵬両大関が、この日そろって横綱に昇進。前年までの栃錦と若乃花による「栃若時代」にかわって、大型若手横綱の登場に大相撲は大きな盛り上がりをみせました。
投稿日:2014年10月02日(木) 05:29

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)