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「スエズ動乱」 とハマーショルド

今日9月18日は、第2代国連事務総長として、スエズ動乱など数々の紛争解決に努力したスウェーデン外交官のハマーショルドが、1961年にコンゴ動乱の停戦調整にむかう途中、搭乗機の墜落により亡くなった日です。

1905年、スウェーデンのイェンチェーピンに、当時の首相の子として生まれたダグ・ハマーショルドは、少年時代の大半をウプサラで過ごしました。1922年にウプサラ大学に入り、さらにケンブリッジ大学やストックホルム大学で法律や経済学を学んだのち、ウプサラ大で法学士と政治経済学修士を取得し、優秀な成績で卒業しました。

1933年からストックホルム大学の政治・経済学助教授となり、3年後に大蔵省に入ると1945年まで大蔵次官を兼ねながら、1941年から1948年まで国立スウェーデン銀行総裁を務め、1945年には、内閣の財政・経済問題担当の顧問に就任して、大戦後の経済問題緩和についての政府案に関わりました。1947年、ヨーロッパ16か国がマーシャル・プラン受け入れを決定したパリ会議に、1948年にはパリで開催された欧州経済協力機構 (OEEC) の会議にスウェーデンを代表として出席するなど、国内きっての財政専門家としての役割をはたしました。

1949年に外務次官となると、1951年に国連総会のスウェーデン代表団の副団長に、1952年には国連総会のスウェーデン代表団団長に就任すると、1953年4月、初代国連事務総長のトリグブ・リーの辞任にともない、国連安全保障理事会は、後任にハマーショルドを選びました。

当時の国際情勢は、冷戦を反映しあちこちで紛争がおこっていました。ハマーショルドは、国連が紛争にいち早く乗り出して平和的に解決するよう心がけ、朝鮮戦争の休戦協定を成立させ(1953年)、ハンガリー動乱(1956年)を解決させたほか、とくに大きな功績をあげたのは、スエズ動乱の解決(1956年)でした。エジプトがスエズ運河の国有化を宣言したことに、イスラエル、イギリス、フランス3国が出兵しておこった戦争でしたが、国連緊急軍(UNEF)を編成・派遣し、休戦ラインを設定してこれをおさめたことです。

1957年事務総長に再任されると、レバノンやラオスでの紛争に解決の努力をしたところ、ソ連は、ハマーショルドの行動が「反ソビエト的である」と非難しました。さらに1960年、ベルギーの植民地から独立を果たしたコンゴは、激化する内乱の沈静化のために国連に援助を求めました。これに呼応して、ハマーショルドは軍事力を伴った国連軍を派遣して、戦闘中止をうながしましたが、ソ連はその行為は「アメリカ寄り」と非難し、国連事務総長の辞任を要求。代案としてあらかじめ拒否権を持つ3人の国連事務総長によるトロイカ体制を提案しました。

ハマーショルドはこれを拒否し、ふたたび平和使節としてコンゴ動乱の停戦調停におもむく途上、搭乗機が北ローデシア(現在のザンビア)に墜落して死亡してしまいました。1か月後、ノーベル平和賞が贈られています。


「9月18日にあった主なできごと」

1927年 徳冨蘆花死去…長編小説『不如帰(ほととぎす)』を著し、一躍ベストセラー作家となった明治・大正期の作家で随筆家の徳冨蘆花が亡くなりました。

1931年 満州事変勃発…満州の支配をねらう日本陸軍の関東軍は、中国の奉天郊外の「柳条湖」付近で、満州鉄道の爆発事故をおこしました。これを中国のしわざとして軍事攻撃を開始し、数日のうちに満州南部を占領。しかし、中国側から依頼を受けた「国際連盟」は、中国に調査団を送って1932年3月に「満州国を認めない」決議をしたことに日本は反発、国際連盟を脱退しました。中国は同年5月に結ばれた協定により、「満州国」の植民地支配を認めました。
投稿日:2014年09月18日(木) 09:33

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)