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「トヨタ中興の祖」 豊田英二

今日9月17日は、高級車の草分けとなる「クラウン」の開発、「カローラ」などの大衆車の量産、海外市場の席巻など「世界のトヨタ」の礎を創りあげた豊田英二(とよだ えいじ)が、2013年に亡くなった日です。

1913年、今の名古屋市西区に、トヨタの創業者豊田佐吉の弟平吉の次男として生まれた豊田英二は、旧制第八高校(現・名古屋大学)を経て、1936年に東京帝大機械工学科を卒業後、豊田自動織機に入り、自動車部芝浦研究所に配属されました。1941年に日本が第二次世界大戦に参戦すると、軍のトラック製造の現場で修行を重ねました。

戦後は、ドッジライン不況のあおりで経営危機に陥るものの、大規模なリストラによって難をしのぎました。いっぽう、フォードとの技術提携の道を探っていた英二は、1950年7月に米国に渡りました。当時フォードでは日産8000台という大量生産を行っていて、わずか日産40台のトヨタとの差は歴然としていました。3か月ほどの滞在後、英二が得た結論は、「技術面では、自動車の先進国であるアメリカに負けていない。規模の格差を埋めるのが今後の仕事」と語っています。

帰国後、朝鮮戦争特需によって資金繰りに余裕ができ、研究開発に資金を投入できるようになったことで、創業者の長男でいとこの喜一郎とともに国産乗用車の開発に全力を注ぎました。ところが1952年、社長復帰が内定していた喜一郎が急死、後を追うように喜一郎の弟利三郎も他界してしまったことで、英二が豊田家とトヨタを率いなければならない状況になりました。

1952年、社運をかけた大プロジェクト「クラウン」の開発に取り組むと、苦難のすえ1955年元旦に1号車が完成、初年度2752台から翌年には月産1000台を超えるまでになり、このころから、「必要なものを、必要なときに、必要なだけ作る」というジャストインタイム方式(カンバン方式)が機能しはじめました。

さらに1966年11月に、カローラを発売すると、その年わずか2か月で1万2000台を売り、翌1967年には16万台を出荷する大ヒットとなりました。その翌年の1967年に社長に就任した英二は、販売を重視し、銀行融資に頼らず自己資本の充実に努め、無借金経営で優良企業のお手本といわれるほど、ゆるぎない体制を築き上げました。

1982年、トヨタは32年ぶりに自工と自販の合併を果たすと、英二は新たに設立されたトヨタ自動車の会長となり、社長には喜一郎の長男の章一郎を指名しました。いっぽう米ゼネラル・モーターズ(GM)との米国合弁会社NUMMIを1984年に稼働させ、海外拡大路線のきっかけを作ったばかりか、業界団体や財界活動にも力を入れ、日本自動車工業会会長や経団連副会長を兼任しました。

1994年には取締役を退任しましたが、この年、自動車産業を興隆した功績により、米国の自動車殿堂入りをはたしています。1999年からは最高顧問を務めましたが、2010年2月ころから体調を崩し、この日満100歳になったばかりの生涯を閉じました。


「9月17日にあった主なできごと」

1867年 正岡子規誕生…俳誌「ホトトギス」や歌誌「アララギ」を創刊し、写生の重要性を説いた俳人・歌人・随筆家の正岡子規が生まれました。

1894年 黄海の海戦…日清戦争で、日本連合艦隊と清国の北洋艦隊とが鴨緑江沖の黄海で激突、清国海軍は大損害を受けて制海権を失いました。日本海軍が初めて経験する近代的装甲艦を実戦に投入した本格的な海戦として知られています。
投稿日:2014年09月17日(水) 05:12

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)