今日7月7日は、正太・善太・三平兄弟が活躍する小説、たくさんのリアリズム創作童話や昔話の再話を残した坪田譲治(つぼた じょうじ)が、1982年に亡くなった日です。
1890年、いまの岡山市にランプやろうそくの芯を作る製織所の子に生まれた坪田譲治は、8歳の時に父が亡くなったため、大学生だった兄が家業を継ぎました。1908年に早稲田大予科へ入学、童話作家の小川未明と出会って強い影響を受けるものの、健康を損ねて3度休学しながら同大英文科を卒業後、早大図書館に勤めたのち、家業の製織所に就職しました。
そのかたわら、小説や童話を書きためていましたが、会社経営にもたずさわるようになったことで、創作活動も思うようにならなくなりました。1923年ふたたび東京に出て創作活動を再開し、1926年に短編小説集『正太の馬』を出版、翌年には童話『河童の話』などを鈴木三重吉の童話・童謡雑誌「赤い鳥」に発表してむじゃきな童心を描く作家として認められるものの、なかなか収入に結びつかず、妻子を東京に残したまま、故郷にもどって働くなど、困窮生活を続けました。
1933年、経営権をめぐるトラブルに敗れて製織所をやめると、1935年に山本有三の紹介で『お化けの世界』が雑誌「改造」に発表されると好評を博し、第1童話集『魔法』第2童話集『狐狩り』も出版されて、ようやく坪田文学に陽の目があたるようになりました。そして翌年、朝日新聞夕刊の新聞小説として連載した『風の中の子供』が、幅広い年代層の支持を得ていちやく人気作家になりました。
この作品は、製織会社の専務をつとめる父が会社をやめさせられた上、会社から家財を差し押さえられ、世間から冷たい眼でみられるという厳しい「風」の中を、善太と三平兄弟が、たくましく生きる姿を描いたものです。「風」が、烈しければはげしいほど、それぞれの個性を生かして生き抜く姿は、自身の苦しい体験と十数年にわたる創作活動が集大成された代表作でした。その後も『子供の四季』など正太・善太・三平兄弟が活躍する話が、子どもから大人まで親しまれるようになりました。
戦後は、日本児童文学者協会の第3代会長などを務めるかたわら、たくさんの昔話を再話したことでも知られ、戦前の「早大童話会」に続いて童話雑誌「びわの実学校」を主宰して、松谷みよ子、あまんきみこ、大石真らたくさんの後進を育てました。1955年には日本芸術院賞受賞、1973年に朝日文化賞受賞したほか、没後の1986年からは、岡山市主催による坪田譲治文学賞が創設されています。
「7月7日の行事」
今日7月7日は、「七夕」です。こんなロマンチックな中国の伝説が、もとになっています。
天の神様の娘の織女星(こと座のベガ)は、美しい織物を織る名手でした。とても仕事熱心なため、年頃になってもボーイフレンド一人作りません。かわいそうになった神様は、天の川のむこうに住む働き者の牽牛星(わし座のアルタイル)という若者と結婚させました。ところが、結婚すると二人は、あんまり毎日が楽しくて織女星は織物を織らなくなり、牽牛星も牛を追わなくなったのです。怒った神様は、天の川のこちらの岸に織女星を連れもどし、1年に一度の「七夕の夜」だけ向こう岸に行ってよいことにしたのです。7月7日の晩、空が晴れると、白鳥たちが天の川にたくさん舞い降りて、翼で橋を架けてくれます。織り姫はその白鳥たちの橋を渡って牽牛に会いに行くのです。
いっぽう日本には、「棚機つ女(たなばたつめ)」という民間信仰がありました。少女はこの日に、身を清めて衣を織り、機織り機の棚の上に置いて、神様をお迎えし、穢れを取り去ってもらうというもので、この伝統と中国の伝説がいっしょになって、7世紀の頃から宮中の行事になり、江戸時代の末期になって、一般の人たちもこの行事をはじめるようになったといわれています。
「7月7日にあった主なできごと」
1615年 武家諸法度発布…5月に大坂夏の陣で、豊臣氏を滅ぼした徳川幕府は、2代将軍の徳川秀忠の名で全国諸大名に「武家諸法度」13か条を発布しました。自分の領地と江戸とを1年ごとに毎年4月に参勤することを指示した参勤交代制、築城の厳禁、幕府による大名やその側近の結婚許可制などの統制令でした。
1622年 支倉常長死去…江戸時代初期の仙台藩主伊達政宗の家臣で、慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパへ渡航した支倉常長が亡くなりました。
1937年 盧溝橋事件…北京に近い盧溝橋で、中国・国民党政府軍と日本軍との間に発砲事件がおこりました。日中戦争(支那事変、日華事変)の発端となったこの事件をきっかけに、日本軍と中国は戦争状態に突入し、戦線を拡大していきました。