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明治財政を主導した松方正義

今日7月2日は、明治政府の大蔵卿、大蔵大臣を長期間務め、日本銀行の設立、金本位制の確立など財政をほぼ一手に担当したほか、2度内閣総理大臣を務めた松方正義(まつかた まさよし)が、1924年に亡くなった日です。

1835年、薩摩(鹿児島)藩の下級武士の四男として鹿児島城下に生まれた松方正義(幼名・金次郎)は、貧しい幼・少年時代をおくり13歳には孤児となって知人の世話になりながらも、1847年藩校造士館に入りました。1850年、藩へ出仕すると、大番頭座書役となって7年間を送るうち、その精勤ぶりが評価され、島津久光の連絡係を務めるようになりました。

久光の側近として生麦事件、寺田屋事件等に関与後、大久保利通に認められ、1864年29歳で議政書掛という藩政の立案組織の一員という異例の出世をとげると、2年後には軍艦掛に任命され、長崎と行き来して軍艦や武器の買い付けなどに当たりました。

明治維新後に長崎裁判所参謀となると、明治政府の重責をになった大久保の推薦により日田県(大分県)知事に任命され、1873年に大蔵省に入り、大久保の下で地租改正(土地制度と税制改革)事業の陣頭指揮をとりました。

1875年には大隈重信を補佐して頻発する内乱鎮定などの軍事費調達に奔走。1881年「明治14年の政変」で大隈が政府を離れると、大隈に代わり大蔵卿となって参議を兼ねて財政改革を担当します。翌年には近代的通貨制度を確立するため日本銀行を設立し、インフレを抑えるために緊縮財政と増税による財政政策をとりました。これは「松方デフレ」といわれるもので、はげしい不景気に襲われ、全国各地で農民たちによる反政府運動がおこりました。しかし、松下はこれにめげず、欧米先進国並みの兌換制度(紙幣と金貨や銀貨などとひきかえる約束で銀行が紙幣を発行する制度)や通貨信用制度に取り組み、やがてこれらを確立しました。

1885年に内閣制度ができると、初代大蔵大臣になったのをはじめ、第2・第3・第4・第6・第8・第11代にわたって大蔵大臣を務め、1892年には第4代内閣総理大臣を務め、第6代と、2度総理を務めています。

1898年以降は、元老として国家の重要政策の事項を決定する会議の重鎮となり、特に日露戦争時の財政や戦後の財政改革の立案には、財政家として大きな発言権を行使したといわれています。1917年からは、内大臣として大正天皇を補佐し、晩年には公爵となりました。


「7月2日にあった主なできごと」

1338年 新田義貞死去…鎌倉時代末期・南北朝時代に活躍した武将で、後に室町幕府を開いた足利尊氏と対立した新田義貞が亡くなりました。

1778年 ルソー死去…フランス革命の理論的指導者といわれる思想家ルソーが亡くなりました。

1863年 薩英戦争…前年8月に、薩摩藩は横浜に近い生麦村で、島津久光の行列の先頭を乗馬で横切った英国人を殺傷する事件(生麦事件)をおこしたのに対し、英国は犯人の処罰と賠償金を要求。拒否した薩摩藩へこの日、イギリス東洋艦隊7隻が鹿児島湾へ侵入し、砲撃戦を開始しました。

1950年 金閣寺炎上…この日の早朝に、21歳の大学生が放火して国宝の舎利殿(金閣)が全焼しました。犯人が病弱で、重度の吃音者だったこと、金閣寺の見習い僧侶だったことなどがわかり、三島由紀夫 は『金閣寺』を、水上勉は『五番町夕霧楼』『金閣炎上』を著すなど文学作品が話題となりました。

1961年 ヘミングウェイ死去…『日はまた昇る』『武器よさらば』『老人と海』などを著したアメリカの小説家ヘミングウェイが亡くなりました。
投稿日:2014年07月02日(水) 05:55

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)