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マルクスと対立したバクーニン

今日7月1日は、ロシアの革命家で、無政府主義(アナーキズム)と反権威主義をかかげ、マルクスの主張したプロレタリア独裁に反対したバクーニンが、1876年に亡くなった日です。

1814年、モスクワ北西のプリャムヒノにある貴族の子として生まれたミハイル・バクーニンは、14歳の時にペテルブルクに出て砲兵学校で教育を受け、ロシア皇帝親衛部隊に入隊しました。将校となるものの1835年に退官すると、モスクワで哲学を学ぶうちヘーゲル哲学にひかれ、急進派のサークルと交流を持つようになります。特にべリンスキーやゲルツェンら優れた革命的評論家の影響を受けました。1840年にドイツのベルリン大学に留学するうち政治に関心を持つようになり、『ドイツの反動』を著したほか、プルードンと接したことで無政府主義(アナーキズム)的思想を抱いて国家や教会などあらゆる権威の打倒を主張するようになり、社会主義にも共鳴して、亡命を決意します。

1848年ヨーロッパ各地に革命気運が高まると、フランスなどへ飛んで決起を促す行動をとるうち、翌49年ドイツのドレスデン蜂起で逮捕され、ロシア政府へ送られペテルブルクの要塞に幽閉され、1857年にはシベリア流刑となりました。

1861年に脱走すると、日本の函館、横浜、アメリカを経由してロンドンへ逃れ、同地でゲルツェンとともに革命雑誌『カラコル』の刊行にたずさわりました。しかし戦術の違いから別れ、1863年にはポーランドの一月蜂起に参加しようとしましたが到達できず、スイスとイタリアにしばらく留まりました。犯罪者の立場ではあったものの、ヨーロッパじゅうの急進派の若者たちに支持されていきました。

1868年には、急進派と労働者組織の連合であり、ヨーロッパ各地に支部を持つ「第一インターナショナル」に加入しますが、1872年の大会で、議会選挙への参加を主張するマルクス派とこれに反対するバクーニン派の対立が明らかになりました。議決で敗れ、バクーニンと支持者の一部が除名されると、バクーニンらアナーキストたちは秘密結社「ジェラ同盟」を設立し、スイスのサン・ティミエで独自にインターナショナル会議を開催して、マルクス派との対立を深めました。

いっぽうでバクーニンは、1870年にフランス人の決起を促す『あるフランス人への手紙』を著したことが、翌71年の「パリ・コミューン」誕生につながったともいわれています。しかし、1873年『国家制度とアナーキー』『神と国家』を著すと健康状態が悪化したことで引退を決意し、3年後にベルンで亡くなりました。

バクーニンは、クロポトキンと並び、日本の社会運動にも大きな影響を与えた人物の一人です。


「7月1日にあった主なできごと」

770年 阿倍仲麻呂死去…奈良時代に遣唐留学生として中国(唐)にわたり唐朝の高官となりましたが、日本への帰国を試みるものの果たせなかった歌人・阿倍仲麻呂が、唐で亡くなったといわれています。

1787年 寛政の改革…江戸幕府の老中松平定信は、8代将軍徳川吉宗の「享保の改革」にならい、この日から「寛政の改革」を行い、武芸や学問の奨励、緊縮財政、風紀取締りによる幕府財政の安定化をめざしました。一連の改革は、田沼意次が推進した商業重視政策を否定したものでした。

1997年 香港返還…アヘン戦争を終結させるため、清とイギリス間で結ばれた南京条約(1842年)により、イギリスに割譲された香港でしたが、イギリスから中国へ返還され、特別行政区となりました。
投稿日:2014年07月01日(火) 05:42

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)