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「舞妓の画家」 土田麦僊

今日6月10日は、『舞妓林泉』『三人の舞妓』『湯女(ゆな)』『島の女』など、はなやかで大胆な構図を得意とした日本画家の土田麦僊(つちだ ばくせん)が、1936年に亡くなった日です。

1887年、新潟県佐渡島の農家に生まれた土田麦僊(本名・金二)は、子どものころから絵の上手な少年として注目され、小学校の先生は父に画家をめざすように勧めるほどでした。ところが画家など旅の貧乏絵師くらいにしか考えなかった父はこれを許さず、当時貧しい家の子弟が高等教育を受けさせるための通例だった地元の寺に預けられました。1903年には、寺の本山である京都の智積院に入り、中学をめざしました。

ところが麦僊は、都会の堕落した僧侶の姿に失望し、画家として立つことを決意。「坊さんになる気はありません。画家をめざします」という書き置きを残して寺をぬけ出すと、鈴木松年の門に入りました。しかし松年塾からはだれも展覧会に入選する者がいないことを知ると、同志を誘って1904年暮れ、竹内栖鳳に弟子入りし、麦僊の号を得ました。70数人の弟子たちが、月1回の研究会でお互いの作品を批評しあい、写生会や運筆会、美学講義などのある栖鳳塾は、田舎出の麦僊にとって希望に燃える日々で、精進に精進を重ねていきました。そしてわずか半年後、春の新古美術展に出品した『清暑』が4等賞となって、いちやく京都画壇に登場しました。

以後麦僊は、毎年のように新古美術展で賞を受け、1908年の文部省主催の第2回「文展」では『罰』が3等賞とを受け、多くの先輩たちを尻目に京都画壇の新鋭として、全国的に注目されるようになります。1909年には発足したばかりの京都市立絵画専門学校(今の京都市立芸術大)に入学すると、西洋絵画を学んだことに刺激され、1912〜13年には『島の女』『海女』を文展に発表し、大きな話題を呼びました。これらは主題的にも個性を強く表明する点でもゴーギャンと対決した作品といわれています。

1918年、麦僊は同絵画専門学校の仲間だった村上華岳らと国画創作協会を旗揚げし、西洋美術と東洋美術を融合した新しい日本画の創造をめざす「日本画革新運動」をおこしました。同会は1918年の第1回展にはじまり、1928年までに東京および京都で計7回の展覧会を開催しますが、麦僊は第1回展に出品した『湯女』、第2回の『三人の舞妓』をはじめ毎回意欲作を出品し、国画創作協会の中心的な存在となりました。

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麦僊はとくに「舞妓の画家」といわれるように、数多くの舞妓の作品を描いています。『舞妓林泉』(東京国立近代美術館蔵・上の絵)が特に有名です。1927年には、フランス政府から、レジョン・ドヌーブ勲章と、文部省教育美術賞を授与されています。

なお、1921年〜23年に1年半の渡欧の旅にでて、ルノワールやセザンヌなどの西洋絵画を収集していて、現在、大原美術館にあるセザンヌの『水浴』は麦僊が常に画室の壁に掛けていたものだそうです。


「6月10日にあった主なできごと」

1017年 源信死去…平安時代中ごろの天台宗の僧で、『往生要集』を著して浄土教を広め「恵心僧都(えしんそうず)」と讃えられた源信が亡くなりました。

1628年 徳川光圀誕生…水戸黄門の名でしたしまれ、徳川家康の孫にあたる第2代水戸藩主の徳川光圀が生まれました。

1863年 緒方洪庵死去…大阪に適々斎塾(適塾)を開き、福沢諭吉や大村益次郎らを育てた教育者として、また蘭医として種痘を広め天然痘の予防に尽力した緒方洪庵が亡くなりました。

1920年 時の記念日…「日本書紀」によると 天智天皇(中大兄皇子) が「漏刻」という水時計を作り鐘を打った日と記されています。東京天文台と生活改善同盟会はこれを記念して「時間を大切にすることを、改めて考え直そう」と呼びかけ、6月10日を「時の記念日」に制定しました。
投稿日:2014年06月10日(火) 05:20

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)