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『日本之下層社会』 の横山源之助

今日6月3日は、明治中期に生きる下層民の実態を克明に記録したジャーナリストの横山源之助(よこやま げんのすけ)が、1915年に亡くなった日です。

1871年、いまの富山県魚津市に網元の私生児として生まれた源之助は、生後まもなく左官職人横山伝兵衛の養子となりました。地元の小学校を卒業後、商家に住みこみ奉公をしながら独学して県立富山中学に入学しましたが2年で中退、弁護士をめざして上京しました。英吉利(いぎりす)法律学校(現・中央大)に学びながら、弁護士試験を数回受験するものの失敗してしまいます。その間、二葉亭四迷、内田魯庵、幸田露伴ら文学者と知り合ううち、とくに二葉亭四迷の影響を受けて、貧民問題に強い関心を持つようになりました。

1894年、横浜毎日新聞に記者として採用されると、東京の下町で働く手工業や機械工業の労働者、貧しい庶民の生活を調べあげ、ルポルタージュにして連載するうち評判になりました。車夫、日雇い人足、職工、大道芸人など少しずつ取材範囲を広げ、1896年から翌年にかけては足利(栃木)や桐生(群馬)の女工やマッチ工場の工員、郷里の魚津から阪神地方の小作農たちの実態まで記録しました。そして1899年、『日本之下層社会』のタイトルで出版しました。この著書は、これまでのルポルタージュをまとめただけでなく、貧民たちの生活費の実情、職人の賃金形態、労働時間、女子・年少労働者問題などがきめこまかく記されていることで、明治中期の貧民の実態や労働事情を知る貴重な資料として、今も高く評価されています。

その後も、常に庶民の立場にたってその暮らしぶりを記すいっぽう、社会運動にも関心を寄せ、高野房太郎や片山潜と労働組合期成会に関与しますが、過労に倒れて新聞社を退社し、帰郷しました。健康を回復し再度上京すると、社会運動から離れ、大井憲太郎と労働者の海外出稼ぎ計画をたてましたがうまくいきません。晩年は、移民問題に関心をよせ『海外活動之日本人』『南米渡航案内』を著し、1912年にはブラジルに渡航して『南米ブラジル』を書いています。しかし、帰国後は肺結核に苦しみ、貧窮のうちに、自ら下層民のひとりとして生涯を閉じたのでした。


「6月3日にあった主なできごと」

1853年 黒船来航…アメリカ海軍に所属する東インド艦隊司令長官ペリーは、日本に開国をせまる大統領の親書をたずさえて、この日4隻の黒船で江戸湾浦賀(横須賀市浦賀)に来航。「黒船あらわる」というニュースに、幕府や江戸の町は大騒ぎとなりました。翌年、ペリーは7隻の艦隊を率いて再来航、幕府はペリーの威圧に日米和親条約を締結して、200年余り続いた鎖国が終わりをつげることになりました。

1875年 ビゼー死去…歌劇『カルメン』『アルルの女』『真珠採り』などを作曲したフランスの作曲家ビゼーが亡くなりました。

1899年 ヨハンシュトラウス(2世)死去…ウインナーワルツの代表曲として有名な『美しき青きドナウ』『ウィーンの森の物語』『春の声』など168曲のワルツを作曲したオーストリアの作曲家ヨハンシュトラウス(2世)が亡くなりました。

1961年 ウィーン会談…アメリカ大統領ケネディとソ連最高指導者フルシチョフは、オーストリアのウィーンで、東西ドイツに分裂・対立するドイツ問題についての会談を行ないました。
投稿日:2014年06月03日(火) 05:40

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)