児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ Top >  今日はこんな日 >  『長崎の鐘』 の永井隆

『長崎の鐘』 の永井隆

今日5月1日は、自ら被爆したにもかかわらず、献身的な被爆者治療にあたった医師として知られる永井隆(ながい たかし)が、1951年に亡くなった日です。

1908年、島根県松江市の医者の子として生まれた永井隆は、県立松江中学、松江高校を優秀な成績で卒業すると医者をめざし、1928年長崎医科大学に学びました。浦上天主堂に近い、代々隠れクリスチャンだった森山家に下宿したことで、カトリックに関心をいだくようになり、内科医をめざして勉学にはげみました。努力が実って、1932年の卒業式で総代として答辞を読むことになっていたところ、事前に急性中耳炎にかかって重症に陥ったことで、当初志望した内科をやめて放射線医学を専攻することになり、研究室助手として放射線物理療法の研究に取り組みました。

1933年に広島歩兵連隊の軍医として満州事変に従軍、戦地で救護活動にあたりました。翌年帰国後助手に復帰すると、カトリックの洗礼を受けて森山家のひとり娘の緑と結婚。信徒組織ヴィンセンシオ会に入会すると、無料診断・無料奉仕活動などを行いました。1937年、長崎医科大学の講師に就任後、同年におこった日支事変(日中戦争)により、ふたたび軍医として出征すると、日本軍のみならず中国人への医療にも従事し、ヴィンセンシオ会から送ってもらった物資を分配するなどの活動をします。

1940年に帰国、同大学助教授・物理的療法科部長に就任するものの、長期間のレントゲン照射により1944年骨髄性白血病と診断されました。追い打ちをかけるように1945年8月9日、原子爆弾が長崎に投下され、爆心地から700mしか離れていない長崎医大の診察室で被爆。頭動脈切断という重傷を負うものの、布を頭に巻いただけで救護活動にあたりました。

3日後に帰宅すると、台所跡から骨片だけになった妻の遺骸を発見、その骨片を拾って埋葬します。その後子どもたちと義母が疎開していた西浦上の家に救護本部を設置して被爆者救護に当るものの、9月はじめに突然傷口からの失血のため死を覚悟します。ところが奇跡的に回復し、1946年1月には同大教授となって、多くの被爆者の治療を献身的に行ったことで「浦上の聖者」といわれました。しかし7月に長崎駅近くで倒れ、その後は病床に伏すこととなりました。

闘病中に書いた『長崎の鐘』や『この子を残して』はベストセラーとなり、特に『長崎の鐘』は、1949年に永井の原作をヒントにサトウ・ハチロー作詞、古関裕而作曲、藤山一郎の歌でレコード発売され、藤山は、永井が白血病で亡くなる前の第1回NHK紅白歌合戦1月3日の大トリにこの曲をうたい、以後紅白歌合戦に3回うたった他、1950年の同名映画の主題歌になって、長く親しまれ続けました。

♪ こよなく晴れた 青空を 悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に はかなく生きる 野の花よ
 * なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る

召されて妻は 天国へ 別れてひとり 旅立ちぬ
かたみに残る ロザリオの 鎖に白き わが涙
  (* くりかえし)             「以下略」

なお、永井の著書『長崎の鐘』は、オンライン図書館「青空文庫」で読むことができます。


「5月1日はこんな日」

メーデー…世界各地の労働者が、国際的に統一して権利要求と国際連帯の活動を行なう「労働者のお祭りの日」のメーデーです。


「5月1日にあった主なできごと」

1873年 リビングストン死去…文化の灯から閉ざされたアフリカ原住民たちへ深い愛を注いだ、イギリスの宣教師で探検家のリビングストンが亡くなりました。

1904年 ドボルザーク死去…『スラブ舞曲』や『新世界より』などの作曲で名高いチェコ・ボヘミヤ音楽の巨匠ドボルザークが亡くなりました。
投稿日:2014年05月01日(木) 05:47

 <  前の記事 軍縮を実現した宇垣一成  |  トップページ  |  次の記事 「赤狩り」 のマッカーシー  > 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://mt.izumishobo.co.jp/mt-tb.cgi/3321

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

         

2015年01月

        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

月別アーカイブ

 

Mobile

児童英語・図書出版社 社長のこだわりプログmobile ver. http://mt.izumishobo.co.jp/plugins/Mobile/mtm.cgi?b=6

プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)